ハインリッヒ・キューン

ハインリヒ・キューンドイツ語: Carl Christian Heinrich Kühn, 1866年2月25日ドイツ国家連合[1]ザクセン王国ドレスデン市 – 1944年チロル州インスブルック郡ビルギッツ[2])は、ドイツ生まれオーストリア人のピクトリアリスム写真家。「Heinrich Kuehn」と綴られることもある。

人物 編集

キューンは、当初薬学を志すも、断念して写真の世界に進んだ。

ウィーン分離派にも含められ(具体的には、「Wiener Kamera Klub(ウィーン・カメラ・クラブ)」に参加したり、フーゴ・ヘンネベルクHugo Henneberg、1863年 – 1918年)とハンス・ヴァツェクHans Watzek、1848年 – 1903年)との3人で「Das Kleeblatt」(クレーブラット)または「Vienna Trifolium(または、単に(The) Trifolium)」(ウィーン・トリフォリウム)というグループを結成した)、のちリンクト・リングとフォト・セセッションにも参加した。1900年代初頭にスティーグリッツとの交流が始まり、その後長らく続くことになる。「カメラ・ワーク」にも多くの作品が掲載されている。 1888年から帝&王政オーストリアチロル公国[3]インスブルック市に移住し、オーストリアでの活動を開始。彼は1907年の写真界への登場以来、オートクロームを使用していた[4]。1914年から1915年にかけて、インスブルックで写真学校を開校した。

その作品は、ピクトリアリスムに顕著なソフト・フォーカスや「ぼかし」を多用した作品が多いが、単にそれだけにとどまらずストレートフォトグラフィへと向かう過渡的な性格がうかがわれる。

会報 編集

  • ハインリッヒ・キューン ウィーン分離派からフォト・セセッションへ/蔦谷典子(島根県立美術館学芸員)(日仏美術学会報 第22号・2002年)

脚注 編集

  1. ^ 国家連合。翌年から北ドイツ同盟71年からドイツ帝国
  2. ^ Birgitz, Bez.Innsbruck-Land
  3. ^ County of Tyrol
  4. ^ Jeffrey, Ian (1999). ReVisions: An Alternative History of Photography. Bradford: National Museum of Photography, Film and Television. p. 81. ISBN 094848960X 

関連項目 編集

外部リンク 編集