バグワント・ダース(Bhagwant Das, 生年不明 - 1589年12月10日)は、北インドラージャスターン地方アンベール王国の君主(在位:1574年 - 1589年)。バグワーン・ダース(Bhagwan Das)とも呼ばれる。

バグワント・ダース
Bhagwant Das
アンベール王
在位 1574年 - 1589年
別号 ラージャ

出生 不詳
アンベール
死去 1589年12月10日
ラホール
子女 マーン・シング
王朝 カチワーハー朝
父親 バール・マル
宗教 ヒンドゥー教
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生涯 編集

アンベール王国の君主バール・マルの息子として、アンベールで誕生した[1][2]

1562年、父バール・マルはムガル帝国の皇帝アクバルに娘ハルカー・バーイーを嫁がせ、同盟関係を結んだ[3]。これにより、バグワント・ダースは帝国の宮廷に出仕することとなった。

1567年10月、アクバルはメーワール王国の首都チットールガルを包囲したが(チットールガル包囲戦)、これにはバグワント・ダースも作戦参謀として加わっている。

1574年1月、父王バール・マルが死亡したことにより、王位を継承した[1][2]

1585年、バグワント・ダースはカシュミール・スルターン朝の征服を命じられた[4]。これはカシュミールの君主ユースフ・シャーが皇帝アクバルとファテープル・シークリーで面会し敬意を伝えること、つまり服属を拒否したからであった[4]

だが、真冬にシュリーナガルに兵を進めたため、バグワント・ダースの軍は寒さと雪、それに食糧不足に襲われた。そのため、独立を認める代わりとして、サフラン、織物、貨幣などの貢物、アクバルの名でフトバ(説教)を唱えることを条件にユースフ・シャーの申し出を受け入れた[4]

しかし、アクバルはカシュミールを征服できなかったことに激怒し、まもなくカーシム・ハーンという武将を派遣し、1586年10月15日にシュリーナガルに入城し、この地を征服した[4]。だが、ユースフ・シャーの息子らが抵抗を続けたため[4]、バグワント・ダースはその後も帝国北西部にとどまった。

1589年12月10日、バグワント・ダースはラホールで死亡し、息子のマーン・シングが王位を継承した[5][1][2]

脚注 編集

  1. ^ a b c JAIPUR (Princely State) (17 gun salute)
  2. ^ a b c Jaipur (Princely State)
  3. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.252
  4. ^ a b c d e クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
  5. ^ Cenotaphs Of Kachhawa Rulers

参考文献 編集

関連項目 編集