ピエール・ルポートル (彫刻家)
ピエール・ルポートル(Pierre Lepautre、1659年3月4日 - 1744年1月22日[1] )は、フランスの彫刻家である。
ピエール・ルポートル Pierre Lepautre | |
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ニコラ・ド・ラルジリエールによる肖像画 | |
生誕 |
1659年3月4日 パリ |
死没 |
1744年1月22日 (84歳没) パリ |
略歴
編集パリで生まれた。建築家、版画家のジャン・ルポートル(Jean Lepautre: 1618-1682)と建築家、調度品のデザイナーンのアントワーヌ・ルポートル(Antoine Lepautre: 1621–1679)の兄弟らが含まれる有名な美術家の一族の出身である。父親は石彫家のジャン・ルポートル"・ル・ジュヌ"(Jean Lepautre le Jeune) で兄に版画家のジャック・ルポートル(Jacques Lepautre)がいる。一族にはピエール・ルポートルと同名の装飾デザイナー、版画家のピエール・ルポートル(Pierre Lepautre: 1652-1716)がいる。
彫刻家のピエール・ウティノー(Pierre Hutinot: 1616-1679)が名付け親で、ピエール・ルポートルも彫刻の道に進んだ。王立絵画彫刻アカデミーで学び、1683年にローマ賞を受賞し[2]、イタリアに留学し、1701年まで在ローマ・フランス・アカデミーで修行した。
この頃、ローマで制作し、パリに送った作品の中には、発掘されたばかりの古代彫刻を元に制作した「山羊と少年(Le Faune au chevreau) 」(1685年作)などがある[3]。パリに戻ると多くの注文を受けるようになり、1705年から1710年の間は、ルイ14世の王室建築家のジュール・アルドゥアン=マンサールの指揮下でベルサイユ宮殿の礼拝堂やテュイルリー宮殿の庭園などの装飾彫刻を制作した。
彫刻家としての名声を得てパリの美術家組合のアカデミー・ド・サン=リュック(Académie de Saint-Luc)の校長も務めた。
作品
編集脚注
編集- ^ Chalmers, Alexander (1815). The general biographical dictionary: containing an historical and critical account of the lives and writings of the most eminent persons in every nation, particularly the British and Irish, from the earliest accounts to the present time, Volume 24. Oxford University. pp. 214
- ^ Tubal-Caïn (ou Touval-Caïn, Tubalcaïn), est un personnage de la Mythologie juive, créateur de la métallurgie.
- ^ The group was in the Garden of the Tuileries] when it was taken to the Musée du Louvre in 1872. It is one of three Lepautre sculptures formerly at Marly now displayed with the Atalante in the Cour Marly.
参考文献
編集- Lepautre sculptures in the Louvre
- Pierre Lepautre in American public collections, on the French Sculpture Census website