フランスのスイス侵攻 (1798年)

フランスのスイス侵攻(フランスのスイスしんこう、ドイツ語: Franzoseneinfall)では、フランス革命戦争中の1798年1月から5月にかけて、フランス第一共和政の軍がスイスに侵攻して原スイス誓約同盟英語版を崩壊させた戦争と、それに呼応して発生した「ヘルヴェティア革命」を中心とするスイスの内乱について述べる。近世スイス英語版カントン連邦体制は解体され、代わって中央集権的なヘルヴェティア共和国がフランスの姉妹共和国として成立した。

フランスのスイス侵攻
フランス革命戦争

1798年5月5日のノイエネックの戦いを描いた同時代の絵画。ゼンゼ川英語版を挟んで、ベルンの重騎兵隊(赤服)がフランスの竜騎兵隊に攻撃を仕掛けている。
1798年1月28日 - 5月17日
場所原スイス誓約同盟英語版
結果

フランスの勝利

衝突した勢力
 フランス 原初同盟の旗 原スイス誓約同盟
指揮官
 フランス ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ
 フランス アレクシス・バルタザール・アンリ・シャウエンブルク
 フランス フィリップ・ロマン・メナードフランス語版
カール・ルートヴィヒ・フォン・エーラッハドイツ語版 
アロイス・フォン・レディンク
戦力
35,000人以上[1] 20,000人 (ベルン)
10,000人 (シュヴィーツニトヴァルデンウーリ)[1]
被害者数
不明 700人 (ベルン)

背景 編集

1798年まで、現在のヴォー州にあたる地域はベルン州の一部であり、従属的な地位に置かれていた。ヴォー住民の大部分を占めるフランス語話者は、ドイツ語話者が主導権を握るベルンのもとで抑圧されていると感じていた。彼らの中から、フレデリック=セザール・ド・ラ・アルプ英語版のようにヴォーの独立を求める者が現れた。1795年、ラ・アルプは同胞たちにベルンの貴族たちに対する蜂起を呼びかけたが無視され、革命フランスに亡命して活動を続けることになった。

1797年、北イタリアを征服してチザルピーナ共和国を建設したばかりのフランスの将軍ナポレオン・ボナパルトが、スイスを占領するよう総裁政府に圧力をかけた[2]。その主目的は、アルプス山脈の峠道英語版を越える北イタリアへの補給路を確保することで、副次目標としてスイスそのものの軍事的価値も注目されていた[1]。政治的・社会的な内部混乱にあった原スイス誓約同盟は、フランスと交渉することも抵抗運動を組織することもできなかった[1]。1797年9月にはフランスでフリュクティドール18日のクーデターが発生し、総裁の一人でスイスの独立維持に好意的だったフランソワ・ド・バルテルミーが失脚したことで、スイスはますます苦境に立たされることになった[1]

 
バーゼルで立てられた「自由の木英語版」。他の地域でも、これに倣って革命と自由・解放を象徴する木が立てられた。

1797年10月10日、三同盟の属領だったヴェルテッリーナキアヴェンナボルミオがフランスの支援を受けて原スイス誓約同盟に反旗を翻し、チザルピーナ共和国に合流した[3]。12月、フランスがバーゼル司教領英語版南部を占領し、併合した[3]。その後まもなく、ジュネーヴ付近に10,000人のフランス兵が集結した[2]。こうした状況を受けてスイス内部の状況は急変し、革命がフランスの直接軍事介入の有無にかかわらずスイス全体に広まることを、親フランス派は望み、反フランス派は恐れた。フランスはスイスの従属地域の地方エリートが抱いている不満を煽り、カントンの市民を啓蒙して革命熱を刺激した[3]

1798年1月17日、バーゼル州英語版のリースタルで革命派の反乱が起き、いわゆるヘルヴェティア革命が始まった。反乱軍は法の下の平等を要求し、1月23日には「自由の木英語版」を打ち立て、代官英語版の城を三城焼き払った[4]。1月24日、ヴォーの都市エリートがレマン共和国 (République lémanique)の建国を宣言し、中心となったローザンヌを政府所在地に定めた[5]。2月から4月にかけて、スイスではヴォーの例に倣って無数の都市やカントン、属領で蜂起が起き、40以上の短命な共和国が乱立した[2]

フランスの侵攻 編集

1月28日、レマン共和国の招請により、フィリップ・ロマン・メナードフランス語版将軍率いる12,000人のフランス軍がヴォーに侵攻した。直前の1月25日には、ヴォーのティエラン英語版でフランスユサール2人がスイス兵に殺害される事件が起きており、これも侵攻の端緒となっていた[2][6]。フランス軍は抵抗を受けずにヴォーを占領した。旧支配者であるベルンの軍勢はムルテン英語版フリブールへ撤退したため、ヴォーの住民はフランス軍を歓呼で迎えた[1]。続いてアレクシス・バルタザール・アンリ・シャウエンブルク率いるフランス軍第二陣が旧バーゼル司教領のモン=テリブル英語版から侵攻し、ベルン政府に親フランス革命派へ政権を譲るよう要求した[1]。ベルンが要求を拒絶したことを口実としてフランスは戦端を開いた[1]。 ベルンのカール・ルートヴィヒ・フォン・エーラッハドイツ語版元帥が全スイス軍の総司令官に任じられ、対するフランス軍はギヨーム・ブリューヌ将軍が総指揮を執ることになった[7][8]

 
『古きベルン最後の日々』。グラウホルツの戦いを描いたフリードリヒ・ヴァルトハルトの作品

3月1日、戦闘が始まった。翌日にはレングナウ英語版付近、グレンヘン英語版、ルーヘルの森で戦闘が起き、ソロトゥルン州が降伏した[1]。3月4日、ベルン政府は総辞職したが、軍はフランス軍への抵抗をつづけた[1]。しかし翌5日、ベルン軍はフラウブルンネン英語版で敗北を喫した。同日、フランス軍はグラウホルツの戦い英語版で決定的勝利をおさめ、ヴォーのベルンからの離脱を決定づけた[1]。そのままシャウエンブルクは、新たにベルン政府首班に任命されていた親フランス派の指導者カール・アルブレヒト・フォン・フリッシンクからの降伏を受け入れた[1]。スイス軍のエーラッハは抵抗継続を志してグラウホルツから撤退する途中で、彼を裏切り者と誤解した味方兵によりヴィッヒトラッハ英語版付近で暗殺された[7]。一方で同日、ノイエネック英語版でスイス軍が勝利を収めた。これによりムルテンやフライスブルクから北上してくるフランス軍は足止めされたが、戦争の大勢には影響しなかった[1]。戦争を通じてベルン側は700人の戦死者を出した。フランス軍の被害は不明である[1]

ベルンが降伏したことを受けて、属領が独立し共和国を名乗る運動がさらにスイス中で激化した。しかしフランス総裁政府は、フランス東方国境に何十もの小共和国が乱立するよりも、単一の共和政府がスイスに成立することを望んだ。そこで、すべての地方自治体の平等を確認したうえでの統一政府(再)樹立が図られた。パリでは、すでにピエール・オクス英語版の手により新憲法の草案が書き上げられ、総裁政府の承認を得ていた。スイスの諸反乱勢力の多くはこれをそのまま受け入れるのを嫌い、バーゼルで開かれた「国民公会」で修正版が承認され、スイス各地に受け入れられた。しかしフランス政府は、元のオクス版憲法の適用を強制した。またブリューヌがスイスを三つの共和国 (Tellgovie、Hélvetie、Rhodanie)に分割する案を3月16日と19日に提出していたが、これも却下された[4]

 
「フランスとの戦いへ赴く前に父から祝福を受けるアロイス・フォン・レディンク」アウグスト・ヴェッケッサー英語版

4月12日、各州代表議員121人が、革命フランスの姉妹共和国としてのヘルヴェティア共和国建国を宣言した。新体制は各州(カントン)の主権と封建制を廃止し、フランス革命に倣った単一国家を志向した[4]。しかし、スイス中部の三州(シュヴィーツ州ニトヴァルデン準州ウーリ州)はヘルヴェティア憲法の施行を拒絶し、シュヴィーツ州知事英語版アロイス・フォン・レディンクを長として10,000人の反乱軍が組織された[1]。反乱軍は、ナップ山英語版からラッパースヴィル英語版まで伸びきっていたフランス・ヘルヴェティアの防衛線を引き裂いた[1]ルツェレンを制圧したレディンクはブリュニヒ峠英語版を越えてベルナー・オーバーラントに侵入した。しかしシャウエンブルクは逆にチューリヒからツーク、ルツェレン、サッテル峠英語版を通ってシュヴィーツへ逆侵攻した[1]ツーク州ルツェルン州はフランス軍の前に降伏し、ラッパースヴィルが占領されヴォルララウ英語版付近の戦闘で反乱軍が敗れると グラールス州も降伏した[1]。レディンクの軍勢はシンデレジ英語版の戦いで敗北して撤退を余儀なくされ、ローテンツルム英語版の戦いでは勝利したものの、形成を覆すことはできなかった[1]。5月4日、シュヴィーツのランツゲマインデ英語版は戦闘継続断念を決議した[1]。しかしスイス中部の抵抗ぶりに感心したフランス当局は、反乱軍に緩い条件下での降伏を認め、武装放棄を要求しなかった[1]

フランスのスイス侵攻を通して最後の戦いとなったのが、上ヴァレーで発生した反乱である。この反乱は当初は順調に進んだものの、最終的に5月下旬に鎮圧された[1]。またしばらく時を置いた9月にはニトヴァルデンで反乱がおきたが、シャウエンブルクに鎮圧された。この時は双方それぞれ約100人の戦死者を出し、市民300人が虐殺された[9]

その後 編集

このフランスによるスイス侵攻は、1797年10月18日にカンポ・フォルミオ条約が結ばれ第一次対仏大同盟が解消された後に起きた事態であった。フランス革命以来中立を保っていたスイスがフランスに侵略され支配下に入ったことは、1798年12月に第二次対仏大同盟が結成される一因となった。また第二次対仏大同盟戦争中、オーストリアとロシアはフランスに対抗して、1799年と1800年の二度にわたりイタリア・スイス遠征英語版を行うことになる。

戦争を通じて、スイスは全土にわたり戦火やフランス軍の収奪により荒廃した。フランス軍はアインジーデルン修道院英語版などで略奪を行い、各地のゲマインデや個人に兵糧を供出させたりした。そのため、スイスでは反フランス、反ヘルヴェティア共和国感情が高まった。またフランスはヘルヴェティア共和国に対しても、強制的な貸付を行ったり資金供出を強要したりした。ベルンやチューリヒで略奪された財宝も含めると3000万リーブルが集められた。フランスの歴史家によれば、これらはナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の財源にあてられた[10]

戦闘一覧 編集

 
フランスのスイス侵攻とヘルヴェティア革命関連地図
日付 戦闘 戦場 陣営・結果
1798年3月2日 レングナウの戦い レングナウ英語版 フランス対ベルン
1798年3月2日 トヴァンの戦い トヴァン英語版 フランス対ベルン
1798年3月2日 グレンヒェン・ベルラッハの戦い グレンヒェン英語版, ベルラッハ英語版 フランスがゾロトゥルンに勝利
1798年3月3日 クロワ峠の戦い クロワ峠 (ジュラ州)英語版 フランス対ベルン
1798年3月5日 クロワ峠の戦い[11] クロワ峠 (ヴォー州)英語版 フランスがベルンに勝利
1798年3月5日 ザンクト・ニクラウスの戦い メルツリゲン英語版 フランス対ベルン
1798年3月5日 フラウブルンネンの戦い フラウブルンネン英語版 フランスがベルンに勝利
1798年3月5日 グラウホルツの戦い英語版 シェーンビュール英語版 フランスがベルンに勝利
1798年3月5日 ノイエネックの戦いドイツ語版 ノイエネック英語版 ベルンがフランスに勝利
1798年4月26日 ヘクグリンゲンの戦いドイツ語版 ヘクグリンゲン英語版 フランスがツークに勝利
1798年4月30日 ヴォルララウの戦いドイツ語版 ヴォルララウ英語版 フランスがシュヴィーツに勝利
1798年5月1日 ストゥッケテン=ヒェッペリの戦い バインヴィル英語版 フランス対ゾロトゥルン
1798年5月2日 シンデレジの戦いドイツ語版 フロイジスベルク英語版 フランスがシュヴィーツに勝利
1798年5月2/3日 ローテンツルムの戦いドイツ語版 ローテンツルム英語版 シュヴィーツがフランスに勝利
1798年5月17日 第一次プフィンの戦い シオン フランスが上ヴァレーに勝利
1798年9月7-9日 ニトヴァルデン蜂起ドイツ語版 ニトヴァルデン フランスがニトヴァルデンに勝利

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Martin Illi: French invasion in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  2. ^ a b c d Nappey, Grégoire (2012). Swiss History in a Nutshell. Basel: Bergli Books. p. 43. ISBN 9783905252453. https://books.google.com/books?id=9V4aCgAAQBAJ&pg=PA43 2016年5月11日閲覧。 
  3. ^ a b c Andreas Fankhauser: Helvetic Republic §1.1. The political upheavel in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  4. ^ a b c Andreas Fankhauser: Helvetic Revolution in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  5. ^ Hug, Lina; Stead, Richard (1890). The Story of Switzerland. United States: Library of Alexandria. p. 210. ISBN 9781465597243. https://books.google.com/books?id=FLcgAgAAQBAJ&pg=PT210 2016年5月11日閲覧。 
  6. ^ Emmanuel Abetel: Thierrens in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  7. ^ a b Barbara Braun-Bucher: Karl Ludwig von Erlach in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  8. ^ Andreas Fankhauser: Guillaume Brune in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  9. ^ Karin Schleifer-Stöckli: Nidwald §4.1.1. From the Helvetic Republic to the Federal state (1798-1848) in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.
  10. ^ Paul de Vallière: Treue und Ehre. Geschichte der Schweizer in Fremden Diensten. Deutsch von Walter Sandoz. Lausanne o. J. [1940], S. 644.
  11. ^ Le Monument Forneret”. 2023年3月12日閲覧。

外部リンク 編集