フレデリク・ダニエル・ハーディ
フレデリク・ダニエル・ハーディ(Frederick Daniel Hardy、1827年2月13日 – 1911年4月1日)[1][2]はイギリスの画家である。おもに風俗画を描いた。ケント州の農村、クランブルック(Cranbrook)に住んで住民の日常生活を描いたクランブルック・アートコロニーの画家たちの主要な人物であった。
フレデリク・ダニエル・ハーディ Frederick Daniel Hardy | |
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生誕 |
1827年2月13日 イギリス、ウィンザー |
死没 |
1911年4月1日 イギリス、クランブルック(Cranbrook) |
略歴
編集ウィンザー城のあるバークシャーのウィンザーで生まれた。先祖はシティ・オブ・リーズのHorsforthの出身で、初代クランブルック伯爵になる政治家のゲイソン・ゲイソン=ハーディとは、またいとこの関係になる[3]。父親はジョージ4世からヴィクトリア女王までに仕え、王室の使用人たちのプライベートな楽団のホルン奏者であった。父親はアマチュア画家でもあり、ジェームズ・ダフィールド・ハーディングやエドモンド・ブリストウから絵を学んでいた。兄に画家になった、ジョージ・ハーディ(George Hardy: 1822–1909)がいる。
フレデリク・ダニエル・ハーディは、17歳で、当時、ロンドンのメイフェアにあった王立音楽アカデミーに入学し、3年間音楽を学ぶが、結局、音楽を止め、兄と同じように画家になった[4]。
室内画の描き手として熟練し、1851年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に2点の作品の出展が初受理された[5]。1852年に結婚し、妻の両親の家に近いバッキンガムシャーの Snell's Woodに住んだ後、1853年にケント州のクランブルックに移り、その後の生涯をそこで過ごした[6]。クランブルックには兄のジョージ・ハーディやジョン・コールコット・ホーズリー、オーガスタス・エドウィン・マルレディらが訪れ、クランブルック・アートコロニーが形成された。
フレデリク・ダニエル・ハーディは17世紀のオランダ画家、ピーテル・デ・ホーホやニコラース・マースの影響や、母方の親類で、1856年から亡くなるまでクランブルックに住んだトーマス・ウェブスター(Thomas Webster:1800–1886)に影響を受けたスタイルの風俗画を描いた。
クランブルックで死去した。
作品
編集-
「コテッジの炉辺」(1850)
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"The Foreign Guest" (1859)
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"The Dismayed Artist" (1866)
参考文献
編集- ^ Hardy, Kimber G. (2016). The Hardy Family of Artists: Frederick Daniel, George, Heywood, James and their descendants. Woodbridge, Suffolk UK: ACC Art Books Ltd. ISBN 978-185149-826-0
- ^ Lee, Sidney, ed. (1912). . Dictionary of National Biography (2nd supplement) (英語). London: Smith, Elder & Co.
- ^ Hardy (2016). pp. 12,13 and 198-204.
- ^ Hardy (2016). p. 12.
- ^ Graves, Algernon (1905). The Royal Academy of Arts; a complete dictionary of contributors and their work from its foundation in 1769 to 1904. London: Henry Graves & Co. Ltd.. pp. 386
- ^ Correspondence between F.D. Hardy and Thomas Miller. Royal Academy of Arts Archive: Thomas Miller papers.