ケント (イングランド)
ケント(Kent)は、イングランドの地域で、ロンドンの南東にあり、ケント州(the county of Kent, Kent county)とも呼ばれる。ケントという名前は古のケント王国から来ており、州都はメードストンである。ケントはイースト・サセックス、サリー、大ロンドンと接し、テムズ川中流にエセックスとのはっきりした境界がある。ケントには英仏海峡トンネルが存在しフランスとの間には名ばかりの境界がある。
ケント | |
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地理 | |
様態 | 典礼および非都市カウンティ |
リージョン | イングランド南東部 |
面積 総面積 行政区画 行政面積 |
10 位 3,736 km2 (1,442 sq mi) 10 位 3,544 km2 (1,368 sq mi) |
カウンシル所在地 | メードストン |
ISO 3166-2 | GB-KEN |
ONSコード | 29 |
NUTS 3 | UKJ42 |
人口統計 | |
人口 総人口 (2018年中期推計値) 人口密度 行政区分 登録人口 |
5位 1,846,478 494/km2 (1,280/sq mi) 1位 1,568,623 |
民族構成 | 96.9% 白色人種 1.9% アジア系 |
政治 | |
ケント州議会 www.kent.gov.uk/ メドウェイ議会 www.medway.gov.uk/ | |
国会議員 | |
ディストリクト | |
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ケントには市が2つあり、カンタベリー大主教のいるカンタベリーとロチェスター主教のいるロチェスターである。しかし、地方政府が再編された1998年からロチェスターは行政上の監督のできる市としての権限を失ったが、現在復活に向けた試みが行われている。その他の町は、下記の一覧表を参照のこと。
「イングランドの庭園」という渾名のためにケントは絵に描いたような田園州と思われているかも知れないが、農業経営は今も産業である。何世紀以上も他の多くの産業は重要であったし、今も重要なものがある。羊毛製の生地製造、製鉄、製紙、セメント、工学、以上全ては工業分野である。漁業と観光は(特に海岸のリゾート地で)多くの人が従事している。東部ケントの炭田は、20世紀に採掘され、ダンゲネスにダンゲネス発電所がある。それでもサネット地域はイングランド南東部の最貧地区の1つと考えられている。
フェリー港、英仏海峡トンネル、2つの自動車道は、ヨーロッパ大陸と結んでいる。マンストンとロチェスターに空港が、ヘッドコーンとリッドに小規模の飛行場がある。
ケントに住む有名人は、チャールズ・ディケンズとチャールズ・ダーウィンなどがいる。ウィンストン・チャーチルの家だったチャートウェルもケントにある。
ケントの史跡調査は、ヴィクトリア朝州史調査制度で制限されているが、広範囲にわたる調査は、1755年 - 1805年にエドワード・ヘイステッドにより50年以上にわたって行われた。ウィリアム・ランバルドは16世紀初期の作家であった。
ケントはケント紙の発祥の地である。またタバコのケントも同地に由来があるとも言われている。
テニス選手権の最高峰ウィンブルドン選手権で、優勝者を表彰するのはケント公である。
歴史 編集
この地域はスワンスコンビ村の採石場の出土物が示すように前期旧石器時代から人が住んでいた。新石器時代にはメドウェイ巨石群が造られ、青銅器時代、鉄器時代、ローマ占領期と続いて豊かだったことは、リングミア塚やダレント川のローマ村のような出土物が示している。
現在のケントという名前は、現在の東部地区の名称として用いられる縁や境界を意味するブリトン語のCantusに由来し、境界や海岸地区の意味である。ユリウス・カエサルは紀元前51年にケルト族の故郷をCantiumと呼んだ。
現在最も西の地区は、別の鉄器時代の民族(レグネンセス族と恐らくウィールドを支配していたもう一つの民族)が支配していた。東部は紀元5世紀にジュート王国のひとつで、後に730年頃にはCantia、835年にはCentとして知られている(ケント王国)。中世の初めには住民はカンタベリーを都とするCantwaraやケント人として知られていた。
カンタベリーは英国国教会の中心地で、カンタベリーのアウグスティヌスの大司教館がある。アウグスティヌスは597年にこの地に即ちイングランドにキリスト教をもたらしたと信じられている。
ノルマンディー公ギヨーム2世(イングランド王ウィリアム1世)のイギリス侵略後、ケント人は「不屈」を意味するInvictaを標語にしている。ケント人はノルマン人に対し抵抗を続け、1067年にケントを半自治のパラタイン伯領とする決定を引き出した。
中世にはワット・タイラーの乱と後年1450年のジャック・ケイドの乱が起きた。トマス・ワイアットはメアリ1世に対して反乱を起こし、1553年にケントからロンドンに攻め入った。カンタベリーはトマス・ベケットの殉教後は大巡礼地になった。カンタベリーの宗教上の役割は、英語の書き言葉の発展の鍵となり表面上はケントの田舎で使われるチョーサーの『カンタベリー物語』を世に知らしめることになった。
17世紀までにイギリスとオランダやフランスといった大陸列強との緊張が、ケントの軍備増強につながっていった。1667年にオランダ海軍がメドウェイの造船所を奇襲してからは海岸沿いのあらゆる場所に砦を築いた。
地理 編集
自然地理 編集
ケントはイングランド最東端の州である。北はテムズ川と北海で、南はドーヴァー海峡(カレー海峡)とイギリス海峡(ラマンシュ海峡)で隔てられている。ヨーロッパ大陸はドーヴァー海峡を渡って約21マイルの距離である。西から東に走る分水嶺の列が主な特徴となっている。分水嶺は1000万年から2000万年前のアルプス造山運動による隆起でできたウィールデンドームの名残である。
侵食によりこうした分水嶺と谷が形成されている。北からテムズ川とメドウェイ河口沿いとケント北部の海岸沿いの沼地、約600フィートの高さの白亜質のノース・ダウンズ、メドウェイ川とその支流の砂岩と粘土層の渓谷、グリーンサンド分水嶺、粘土層のウィールド渓谷、砂岩のハイウィールドがある。
最高地点は251メートル(823フィート)のベトソン丘陵(GR TQ435563)である。
ケントで恐らく最も象徴的な地形は、ドーヴァーの白い崖である。ノース・ダウンズがここで海に達している。ここからウェスター村にかけて現在ケントで自然の景観が美しいとされる地域になっている。
ウィールドはゲルマン語で単に森林地帯を意味するWaldから来ている。この地域の多くは、今日でも森林が密集していて、長い時間をかけて通行不能な大量の泥が堆積している。
ケントの主要な川メドウェイ川は、イーデンブリッジ村近郊を流れ、北に流れが変わるメイドストーン近郊までの約25マイル(40km)を東に流れている。ここでシアネス近郊で最後の支流とテムズ川が合流する手前でロチェスターのノース・ダウンズに流れ込んでいる。この川はアリントン水門まで潮の満ち引きがあるが、かつては運搬船が上流のトンブリッジまで行っていた。他にも川はある。
産業 編集
中世にはウィールドは2つの産業(製鉄と服地)の全国的な要所であった。
ケントは農業が盛んで広大な果樹園とホップ園があるためにイングランドの庭として知られてもいる。乾燥窯と呼ばれる特徴的なホップを乾燥する建物は、農村では良く見られるものの、多くは住宅に改築されている。ロンドン近辺は市場向けの農園が沢山ある。
政治 編集
Man of KentかKentish Manか 編集
ケントは古くからメドウェイ川により西ケントと東ケントに分かれている。この東西の分裂は、メドウェイ川の東の住民をMen of Kentと呼び、西の住民はKentish Menとして知られていることにも表れている。
しかし、更に調べてみると、分岐点はメドウェイではなく、その東のジリンガムにある。エドワード・ヘーステッドは1798年のレインハムの記述で書いている。「この教区のすべては、ケント西部そのものである西に向かって隣接するここジリンガム教区に始まるケント東部との境になっている。」
歴史家でジリンガム前市長フレディー・クーパーによると、この分断は抵抗はあったもののミルトン田園区からジリンガムに移る1929年4月1日まであった。
宗教上はケントはカンタベリーとロチェスターの2教区に分かれている。
Lathes 編集
Latheはケントの古代行政区分のことで、大抵はジュート族に支配された時代に起源があると見られている。こうした古代の区分は現存するが、行政上の意味はなくなっている。ケントにはlatheがエイルスフォード、ミルトン、サットン、ボロー、イーストリー、リムニー、ワイの7つある。ドゥームデイブックによると、1086年にケントは行政、司法、税金の目的から7つのlathesまたはlest(um)に分かれ、この区分は600年間重要なものであった。この7つのlathesはそれぞれ更に小さな村落に分かれたが、latheと村落の機能がどのように違ったかは、明らかではない。
- フランク・W.ジェサップ「ケントの歴史」(1958年)より引用。
封建制 編集
荘園裁判所はドゥームズデイブックから引き継がれた初期の治外法権制度である。時に土地所有権として扱われた。17世紀以降、裁判所の機能は殆どが14世紀に初めて任命された治安判事に引き継がれた。1361年から1971年まで裁判は四季裁判所として年に4回行われた。ケントでは1814年まで(メイドストーンとカンタベリーに)四季裁判所の支部があった。
救貧法 編集
救貧法に従い各教区では自地区の貧民の世話をしなければならず、最低限の保護施設、食事、衣服、医療を与えることになった。殆どの教区で19世紀初頭には急速に救貧法が重荷になっていった。人口が急増し、必要な土地が不足し、救貧法改正が緊急の課題になった。1834年には懲治院として知られる施設に変更された。こうした施設は教区の団体が良く運営したために連邦救護院と呼ばれている。保護委員会はこうした機関を監視するために設立された。
保健委員会 編集
コレラのような伝染病流行により、保健委員会は貧民保護委員会同様に多くは1875年に作られた。衛生区域は上記の境界線と一致している。広めの教区(5000人未満)は、更に小規模の地域が農村区域とされる一方で、都市衛生区域(または都市区域)となっている。
高速道委員会 編集
以前の高速道路企業組合は徐々に高速道委員会に変更されている。
かつての自治都市 編集
ケントは王から特権を与えることを特許状で保証された町があり、中には首長を置けるところもあった。19世紀初頭の行政区は、下記の一覧に載っている。加えてフォードウィッチ村も行政区に加えられていたが、1882年にその権限が剥奪された。
ケント州議会 編集
1888年の地方政府法でケントに行政上の州が創設され、1889年に独自の議会が設けられた。同時に北部地区はロンドン州に移行し、カンタベリーは同様の権限のある独立行政区となった。当初の議会の義務は僅かしかなかったが、次第に教育委員会、郊外の高速道委員会、保護委員会の機能が加わっていった。
教区会議 編集
1894年、教区会議が設置された。この会議は民間のもので、聖職者のものとは関係はなかった。1979年から地方政府に多くの変更が行われたが、教区会議は現在強力な権限があり、特に独立行政区で2番目の行政機能を有している。他のところでも機能の幾つかが州議会から与えられていて、州議会に次ぐ権限がある。教区税は地区や独立行政区で徴収し、教区に支出される。扱いは同じとはいえ更に密集した村落の教区会議は通常町の議会として知られている。こうした会議は伝統的に最も任期の長い議員から首長を選んでいる。
- フランク・W.ジェサップ著『図解ケント史』より引用。
1965年と1974年の変更 編集
1963年のロンドン政府法によりケントの北部地区を加えて1965年に大ロンドンが作られた。1972年の地方政府法は1974年に従来の地方政府制度を廃止しケントを新たな非都市圏州とし、幾つかの区域に分割した。独立色の強かったカンタベリーも新たな州議会の下に置く区となった。
メドウェイ独立行政区 編集
1998年、ジリンガム地区とロチェスターアポンメドウェイ地区は、ボロー・オヴ・メドウェイと呼ばれる独立行政区となるためにケントから分離された。
ケントとロンドン 編集
1888年の地方政府法に基づきロンドン州が作られると、デットフォード、グリニッジ、ウーリッジ、ルイシャムなどのケント北西部の地区がこの新しい州に編入された。ペンジは1899年のロンドン政府法に基づきサリーから移動した。
1965年に1963年ロンドン政府法に基づき更に変更が行われ、ロンドン州が廃止され大ロンドンが作られた。1888年に廃止された地域が、ルイシャム区とグリニッジ区に纏められ、更に2区が作られた。この2区はブロムリー区(ブロムリー、ベケナム、チスルハースト、オーピントン、ペンジ)とベクスリー区(ベクスリー、シドカップ、エリス、クレイフォード)である。
ケント北西部の多くは、ロンドン通勤圏である。テームズ道再建地域にシティングバーン以遠の東部に当たるケント北部の川沿いの地域とA2道の北に広がる地域がある。
形式上の州 編集
ケントの形式上の州は、行政上の州にメッドウェイ地区を加えたものに相当する。
市、町、村 編集
ケントの地名一覧(英文)、ケントの民間教区一覧(英文)を参照のこと。
主要な都市
関係者 編集
- 出身者
- 居住その他ゆかりある人物
- チャールズ・ディケンズ(ヴィクトリア朝の小説家)
- チャールズ・ダーウィン(ヴィクトリア朝期の地質学者、生物学者。「種の起源」)
- ウィンストン・チャーチル(第二次大戦及び戦後のイギリスの首相) - 「チャートウェル」には、公職に無かった1930年代や戦後に脳卒中を患って以降に居住に用いた。
- アンソニー・イーデン(第二次大戦後、チャーチル後任のイギリスの首相) - 第二次大戦中、 Folkestone and Hythe District(2023年現在の地区)のイーラム(Elham)界隈に居住[1][2]。
- マーガレット・サッチャー(イギリスの首相) - 戦後ピムリコ、チェルシー、1957-64年は当時のケント州で現ロンドン市内ブロムリー区のファーンバラ (Farnborough) のドーマー付一軒家に居住。さらにウェストミンスター、1965-72年はケント州ランバーハースト (Lamberhurst)、チェルシー、ダウニング街10番地、サザーク区ダリッジとたびたび住処を変え、1991-2012年はベルグレイヴィアのチェスター・スクウェア (73 Chester Square) 、亡くなる2013年はホテル・リッツに居住[3]。
- シリル・ノースコート・パーキンソン(海軍史家、作家。「パーキンソンの法則」) - 1993年、ケント州カンタベリーで死去。
- オードリー・ヘプバーン(女優) - 1937年の8歳時、イーラム(Elham)の小さな私立学校に通っていた[1][2]。
- パム・フェリス(女優) - 2009年からイーラム(Elham)に居住[4][2]。
- シャーロックホームズ(探偵)ー修道院屋敷の事件の舞台になった
参照 編集
- Glover, J., Place names of Kent.
- Freddie Cooper, personal research
- Men of Kent: Sorry ... but we’re joining a new tribe, by Stephen Rayner, Memories page, Medway News、2004年10月
脚注 編集
- ^ a b “Famous and Notable People "In and Around" the Elham Valley”. Elham Valley Website (2007年7月11日). 2007年7月11日閲覧。
- ^ a b c en:Elham, Kent#Notable people も参照。
- ^ Margaret Thatcher and her property ladder Evening Standard, 17 April 2013
- ^ Sturt, Sarah (2016年12月13日). “Pam Ferris in 'We're Going on a Bear Hunt'”. Kent Life 2018年1月25日閲覧。
外部リンク 編集
- Kent County Council - 地方政府サイト
- Kent Online - ケント・メッセンジャー・グループサイト
- Kent heritage
- Kent resources website
- Kent Downs AONB website
- Village Net web site has photographs and historic details of over 240 Villages in Kent and East Sussex
- provides further information on villages throughout Kent. It makes the point that there thought to be over 300, although the term 'village' covers settlements of a great variation in size. There is a 'Select a destination' box for the alphabetical list
- Spelling of placenames in the county from BBC website
- Kent Coast in Pictures ケントの海岸線の写真集 - ダートフォードからダンジネスまで
- Kent Search Engine - ケントのみを対象にした検索
- Dover Soul, local information website for Dover, Kent UK