ブラック・アンド・タンズ

ブラック・アンド・タンズ英語: Black and Tans, アイルランド語: Dúchrónaigh[1]は、アイルランド独立戦争中に王立アイルランド警察隊(RIC)が設置していた臨時警察隊(Temporary Constables)である[2]。正式には王立アイルランド警察特別予備隊(Royal Irish Constabulary Special Reserve[3][4])と呼ばれた。当時の英国戦争相ウィンストン・チャーチルの発案によって設置された[5]。1919年末からイギリス本国での志願者募集が始まった。イギリス政府の呼びかけに応じて集まった数千人もの志願者は、大半が第一次世界大戦に従軍した経験を持つイギリス陸軍の復員兵だった。また、隊員の大部分はブリテン出身者だったが、少数のアイルランド出身者も含まれていた[6][7] 。その任務はRICによる治安維持および対アイルランド共和軍(Irish Republican Army, IRA)作戦を支援することであった。「ブラック・アンド・タン」、すなわち「黒色と褐色」という通称は、編成当初の隊員らが着用していた間に合わせの制服に由来する。当時、隊員らはイギリス陸軍の褐色野戦服と黒っぽい濃緑色(ライフルグリーン色)をしたRICの制服を組み合わせて着用していた。

王立アイルランド警察特別予備隊
Royal Irish Constabulary Special Reserve
Badge of the Royal Irish Constabulary.svg
通称 ブラック・アンド・タンズ
Black and Tans
略称 RICSR
組織の概要
設立 1919
解散 1922
管轄
国家機関 グレートブリテン及びアイルランド連合王国
活動管轄 グレートブリテン及びアイルランド連合王国
Island of Ireland.svg
王立アイルランド警察特別予備隊の管轄地域
面積 84,421 km²
一般的性格

ブラック・アンド・タンズはしばしば補助部隊英語版(Auxiliary Division)と混同される。補助部隊はイギリス軍の退役将校らで構成されるRICの対反乱作戦部隊であった[8]。ただし、単に「ブラック・アンド・タンズ」と呼ぶ場合でも、補助部隊を含むことがある[6]

設置編集

19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランドでは、アイルランド民族主義者らによる「ホームルール」運動(Irish Home Rule movement, グレートブリテン及び北アイルランド連合王国からの自治権獲得を求める闘争)が支持を広げていた。アイルランドの自治権獲得は第一次世界大戦の勃発によって棚上げとなり、1916年にはこれに反発した共和主義者らによる蜂起が発生した(イースター蜂起)。1918年のアイルランド総選挙英語版では、シン・フェイン党が105議席中73議席を確保した。1919年1月21日、シン・フェイン党は第1回国民議会First Dáil)を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言した[9]。また、この際にアイルランド共和軍(IRA)は正式な国軍と位置づけられた。同月中にアイルランド独立戦争が勃発した。IRAの主な攻撃対象は、アイルランドに駐留する王立アイルランド警察隊(RIC)とイギリス陸軍の施設および部隊であった。

1919年9月、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージはアイルランド国民議会を非合法化し、駐アイルランド陸軍部隊を増強すると共に[10]、新たなアイルランド統治法の策定を進めた。

 
ダブリンに展開したブラック・アンド・タンズの隊員。ルイス銃を手にして喫煙している。黒っぽいコートと褐色のズボンを組み合わせて着用している(1921年2月)

1920年1月、イギリス政府は「荒っぽく危険な仕事に直面する」(face a rough and dangerous task)ことを望む者を求める広告を本国の都市部に掲示し始めた。これはアイルランドにて反英闘争の対処にあたっていたRICの増員を進めるための措置であった。これに対し、失業中の復員兵を中心に多数の応募があり、1921年11月までにおよそ9,500人が特別予備隊に入隊した。入隊者の数が想定を超えたためにRICの制服が払底すると、大半の入隊者は褐色の陸軍の制服(大抵はズボンのみ)と暗緑色のRIC制服あるいは青色の本国警察の制服(上着、帽子、ベルト)を受け取ることとなった。こうして陸軍軍人やRIC隊員と特別予備隊員は外見上も明確に区別されるようになった。クリストファー・オサリバン(Christopher O'Sullivan)は1920年3月25日付『Limerick Echo』紙に寄せた記事で、リムリック・ジャンクション駅英語版で出会った入隊者の一団について、スカーティーン英語版で行われる狐狩り(スカーティーン・ハント)を思い出したとしている。スカーティーン・ハントで猟犬として使われるケリー・ビーグルはブラック・アンド・タン、すなわち胴体が黒く脚が褐色という毛色をしており、褐色のズボンと黒っぽい上着を着用した特別予備隊員をこれに擬えたのである[11]エニス出身のコメディアン、マイク・ノノ(Mike Nono)がこのエピソードを元にしたジョークをステージで語ったことで、特別予備隊を指す「ブラック・アンド・タンズ」という通称はまたたく間に普及し[11]、隊員が上下揃いのRICの制服を受け取るようになっても廃れることはなかった。当時のアイルランドでは、ブラック・アンド・タンズの隊員は刑務所から直接募集された前科者ばかりだという噂が語られていた。ただし、これは事実ではなく、犯罪歴があれば警察官として働くことが認められていなかった[12]。隊員の大半は失業中の復員兵で、彼らは単に生活費を稼ぐためにブラック・アンド・タンズに志願していた[12]

入隊者らは内容を圧縮した3ヶ月間の訓練を受けた後、直ちに各地のRIC兵舎へと配属された。主な任地はダブリン州辺境、マンスター、東部コノートなどであった。1920年3月25日に最初の入隊者らが到着した。また、イギリス政府は別の部隊として補助部隊英語版(Auxiliary Division)の編成を行った。同部隊はオークジラリーズ(Auxiliaries)あるいはオークジズ(Auxies)と通称され、陸軍の退役将校らから編成されていた。ブラック・アンド・タンズは守備的な役割でRICを支援することが主な目的とされていた一方、オークジズは重武装の機動部隊を用いたIRAの捜索および排除といった攻撃的な役割を担っていた。一般にブラック・アンド・タンズによって行われたと言われる犯罪行為の少なくとも一部分は、彼らではなくオークジズが作戦の一環として実施したものである[13]

活動編集

 
IRAとの戦闘後、ダブリンのロンドン・アンド・ノースウェスタン・ホテル前にて撮影されたブラック・アンド・タンズとオークジズの隊員ら(1921年4月)

隊員の待遇は比較的良く、日給10シリング(半ポンド)、3食宿付き(full board and lodging)というものだった。彼らは警察官として最低限の訓練を施されており、警察施設や監視所の戦力を補強するために派遣され、歩哨、警備員、政府職員の護衛、一般警察の援護、群衆整理などの任務に従事した。一連の対反乱作戦に参加するようになると、オークジズと共に「テューダーのごろつき共」(Tudor's Toughs)とも呼ばれるようになった。この呼び名は警察顧問として作戦の指揮を執ったヘンリー・ヒュー・テューダー英語版少将に由来する。その任務の性質のため、共和主義者からは「占領軍の一部」と見なされた。作戦を通じ、彼らは残忍な行いによって恐れられるようになった[14]。RICがIRAおよびシン・フェイン党のメンバーに対する攻勢を強める一方、警察組織によるIRAへの報復は当局によって黙認されていたためである[15]

フォーファー英語版出身のアレクサンダー・ウィル(Alexander Will)は、ブラック・アンド・タンズにおける最初の殉職者だった。ウィルは1920年7月11日、IRAが行ったラスモア英語版のRIC兵舎に対する攻撃の最中に殺害された[16]

編成当初のブラック・アンド・タンズは厳しい統制が取られていなかったため、1920年にはIRAによって隊員が殺害される度に民間人を意図的に対象とした報復が実施された。同年夏には、ブラック・アンド・タンズによる地方集落への襲撃・略奪が相次いだ。7月のチュアム襲撃から始まり、トリム英語版バルブリガン英語版ノッククロアリー英語版サーリス英語版テンプルモア英語版、その他にも多数の集落が襲撃と略奪の対象となった。同年11月、地元のRIC隊員2人がIRAによって拉致・殺害されたことへの報復として、ブラック・アンド・タンズはトラリーを包囲した。彼らによってトラリーのすべての事業が閉鎖され、1週間食料の供給は絶たれ、3人の市民が射殺された。また、彼らには11月14日にゴールウェイにてカトリック教会の司祭マイケル・グリフィンを誘拐・殺害した疑いが掛けられている。グリフィンの遺体は失踪から1週間後にバーナの沼地に捨てられているのが発見された。1920年10月から1921年7月にかけて、ゴールウェイ周辺での警察組織によるIRA容疑者への残虐行為が頻発し、その件数はアイルランドの他の地域における平均を大幅に上回った[12]。1920年12月11日、コークが襲撃を受け、市街の大部分が破壊された(コーク襲撃英語版)。

1921年、イギリス労働委員会(British Labour Commission)は、アイルランドの情勢に関する報告書を提出し、この中で政府の安全保障政策を強く非難した。政府はブラック・アンド・タンズの編成時、「解放軍であり、支配者として振る舞うことはありえない」(liberated forces which it is not at present able to dominate)としていた。しかし、1920年12月29日以降、政府はアイルランドにおける「公的な報復」(official reprisals)の実施を認めた。これは典型的にはIRAメンバーおよびシンパと思しき者の財産への放火という形で行われた。RICでの規律改善が進められたことで、1920年3月以降はブラック・アンド・タンズによる残虐行為は減少した。隊員らの個人的な感情による報復が抑制され、命令に基づいた報復のみが実施されるようになったためである[17]

一般にブラック・アンド・タンズによって行われたとされる行為の少なからぬ部分は、彼らではなくオークジズなど他組織によるものである。例えば、1920年3月に起こったコーク市長トマス・マック・カーテン英語版の暗殺は、現地管区長の指示を受けた一般のRIC隊員による犯行であったし、血の日曜日事件最中にクローク・パークで民間人13名を射殺したのも、一般のRIC隊員であったとされ、また現地には小規模なオークジズの支隊も派遣されていた。これは共和主義者側が厳密な区別をせず、「ブラック・アンド・タンズ」を政府側警察組織全般を指す語として用いたことから生じた誤解である。

政府方針および反応編集

ブラック・アンド・タンズによる活動について、アイルランドとイギリスの世論は共に冷ややかだった。暴力的な戦術に対し、アイルランド国民はIRAに対する水面下での支援を増やすことで応じたし、イギリス国民からは平和的な解決を求める動きが出始めていた。庶民院議員エドワード・ウッドは、武力行使の停止およびアイルランドに対する「最も寛大なラインで考慮された」提案を行うことを政府に求めた[18]。庶民院議員ジョン・サイモン卿も、ブラック・アンド・タンズが採用する戦術に恐怖を感じている旨を語った。ライオネル・ジョージ・カーチス英語版は、『ラウンドテーブル・ジャーナル英語版』誌に寄せた記事の中で、「こうした手段に寄らねばイギリス連邦を保持できないのなら、それは連邦を支えた原則の否定にほかならない」(If the British Commonwealth can only be preserved by such means, it would become a negation of the principle for which it has stood)と述べた[19]。さらには英国王ジョージ5世聖公会主教団、自由党および労働党の議員ら、オズワルド・モズレーヤン・スマッツ労働組合会議、報道機関なども、ブラック・アンド・タンズに対する批判を強めた。マハトマ・ガンディーはイギリスからの和平提案について、「イギリスに不本意な提案を余儀なくさせたのは、さらに人命を失うことに対する恐れではなく、他の何にもまして自由を愛する人々へさらなる苦しみを課すことに対する羞恥である」(It is not fear of losing more lives that has compelled a reluctant offer from England but it is the shame of any further imposition of agony upon a people that loves liberty above everything else)と評した[20]

1920年から1922年までに、およそ7,000人がブラック・アンド・タンズの隊員としてアイルランドに派遣された。このうち1/3以上が1922年の解散以前に除隊しており、半数以上が政府からの年金を受け取っていた。戦争を通じ、RIC隊員のうち404人が殺害され、600人以上が負傷したが、死者・負傷者に占める一般RIC、ブラックアンドタンズないしオークジズの割合は不明である。

ブラック・アンド・タンズの元隊員の中には、除隊後も市民生活への復帰に問題がある者があった。少なくとも2人の元隊員が殺人について裁かれ絞首刑に処されているし、殺人容疑で指名手配された元隊員スコット・カレン(Scott Cullen)は逮捕直前に自殺している[21]

その後編集

ブラック・アンド・タンズの極めて暴力的な振る舞いと彼らが関与したとされる数々の戦争犯罪のため、彼らに対するアイルランドでの関心は依然として強い。「ブラック・アンド・タンズ」という言葉自体も、その残虐性を想起させるとして、未だに快く受け止められない場合が多いという[22]ブラック・アンド・タン英語版は、黒ビールと淡色ビールを重ねたカクテルである。本来ブラック・アンド・タンズとは無関係で、また独立戦争以前から広く知られていたのだが、戦後のアイルランドではこの名が忌避され、ハーフ・アンド・ハーフ(Half and Half)と呼ばれている[23]

共和主義者の歌った闘争歌のうち最も有名なものとして、ドミニク・ビーアン英語版が手掛けた『出てこい、ブラック・アンド・タンズども』(Come Out, Ye Black and Tans)がある。アイルランド独立戦争を指して、「タン戦争」(Tan War)や「ブラック・アンド・タン戦争」(Black-and-Tan War)という言葉が使われることもある。この呼称は内戦時に反条約派として戦った者が好んで用い、現代でも共和主義者らが用いることがある。1941年にアイルランド政府が制定した独立戦争記念章(Cogadh na Saoirse medal)は、独立戦争に従軍したIRAの退役兵らに授与された。この記念章のリボンは黒色と褐色だった[24][25]

脚注編集

  1. ^ tearma.ie - Dictionary of Irish Terms - Foclóir Téarmaíochta”. 2018年5月6日閲覧。
  2. ^ Improving the law Enforcement-Intelligence Community Relationship Archived 27 March 2009 at the Wayback Machine.. National Defense Intelligence College, Washington, DC. June 2007. p. 120
  3. ^ "The burning of Cork, December 1920: the fire service response". History Ireland, November/December 2015 issue.
  4. ^ Reynolds, John. Divided loyalties: the Royal Irish Constabulary in county Tipperary, 1919–22. University of Limerick, 2013. p. 83
  5. ^ McCaffrey, Carmel. In Search of Ireland's Heroes. 2006. p. 233
  6. ^ a b Robert Gerwarth; John Horne, eds. (2013), War in Peace: Paramilitary Violence in Europe After the Great War, Oxford: Oxford University Press, p. 202, "The Black and Tans were the ex-servicemen recruited as RIC constables throughout Britain in late 1919 and constituted a force of approximately 9,000 men before the war's end. However, 'Black and Tans' also came to refer to the temporary cadets of the Auxiliary Division of the RIC, a force of some 2,200 ex-officers, formed in July 1920, and in practice virtually independent of military and policy control. Both forces were made up of veterans from all services. ... Both Auxiliaries and Black and Tans had Irish members." 
  7. ^ Padraig Og O Ruairc, Blood on the Banner, The Republican Struggle in Clare, pp. 332–33
  8. ^ O'Connell, T. Interrogation and Treatment of republican suspects by the British Auxiliary Forces, 'Black and Tans', January 1921, Irish Historical Documents since 1800, edited by Alan O'Day. Gill and MacMillan. p. 169.
  9. ^ Oireachtas, Houses of the. “History, Houses of the Oireachtas”. www.oireachtas.ie. 2018年5月6日閲覧。
  10. ^ In Search of Ireland's Heroes Carmel McCaffrey. Ivan R. Dee. p 231
  11. ^ a b Spellissy, Séan (December 1998). The history of Limerick City. Celtic Bookshop. pp. 87–88. ISBN 978-0-9534683-0-0. 
  12. ^ a b c Augusteijn, Joost Review of The Black and Tans: British Police and Auxiliaries in the Irish War of Independence, 1920–1921 by D. M. Leeson pp. 938–40 from The Journal of Modern History, Volume 85, Issue # 4, December 2013 p. 939.
  13. ^ Spain, Adam (2011年9月17日). “Review of The Black and Tans by DM Leeson”. Irish Independent. http://www.independent.ie/entertainment/books/review-history-the-black-and-tans-by-dm-leeson-26772652.html 2015年11月29日閲覧。 
  14. ^ Don't be too tragic about Ireland – The Guardian, 12 October 1921
  15. ^ Ireland's War of Independence: The chilling story of the Black and Tans – The Independent, 21 April 2006
  16. ^ RIC Record”. 2018年5月6日閲覧。
  17. ^ Gibbons, Ivan (2013-05-14). “The British Parliamentary Labour Party and the Government of Ireland Act 1920”. Parliamentary History 32 (3): 506–521. doi:10.1111/1750-0206.12024. ISSN 0264-2824. 
  18. ^ Lord Birkenhead, Halifax (Hamish Hamilton, 1965), p. 122.
  19. ^ Lionel Curtis, The Round Table, Vol. XI, No. 43 (June 1921), p. 505.
  20. ^ Lawrence James, The Rise and Fall of the British Empire (Abacus, 1998), p. 384.
  21. ^ Bennett, Richard The Black and Tans(London 1959), p. 222
  22. ^ Nike forced to run like hell away over Black and Tan trainer branding” (2012年3月15日). 2018年5月6日閲覧。
  23. ^ Why You Should Never Order A Black And Tan In Ireland”. VinePair. 2019年12月2日閲覧。
  24. ^ Medals of the Irish Defence Forces”. militaryarchives.ie. p. 94 (2010年). 2015年12月22日閲覧。
  25. ^ 1919 – 1921 War of Independence”. 2018年5月6日閲覧。

外部リンク編集