ブランデーワイン派

ブランデーワイン派(Brandywine School)は、アメリカ合衆国のイラストレータ、ハワード・パイルが20世紀の初めにペンシルベニア州デラウェア郡のウィルミントン(Wilmington)やチャズフォード(Chadds Ford Township)などで開いた美術教室で学んだイラストレータやその弟子たちであるイラストレーター、および、彼らの作品のスタイルである[1]。ブランデーワイン派のイラストレータたちは、雑誌や小説作品の挿画を多く描いた。名前の「ブランデーワイン」は批評家のヘンリー・ピッツによって[2]、ウィルミントン近くを流れるクリークの名前(Brandywine Creek)から名づけられたものである。美術教室はこの川の「粉ひき水車小屋」を改装して作られた。

1903年のパイルと学生の写真

概要編集

ハワード・パイル(1853年-1911年)はイラストレーターとして高く評価されるようになった後、1895年からドレクセル美術・科学・産業協会(現在のドレクセル大学)で教え始めたが、学校での美術教育に満足できず、1898年から学生を夏の間、ブランデーワイン川に面した、チャズフォードの風景に恵まれた水車小屋で教え始めた。1900年にドレクセルで教えるのを辞めて、自らのスタジオの一部に自分の美術学校を始めた[3]。アメリカ独自のスタイルを確立するために、アメリカの独立の歴史なども話され[4] [5]、当時多くのアメリカの芸術家がヨーロッパに留学していたのに対して、アメリカでの教育で、画家としての名声を得られるようになることを主張していた。初年度には、500人の学生の応募があったが12人の学生だけが入学を許された。

パイルの絵画作品のスタイルが弟子たちに継承されて「ブランデーワイン派」が形成された。パイルは1910年までこの学校を運営し、この時期の学生で有名になったのはN・C・ワイエス(N. C. Wyeth)、スクーノヴァー(Frank E. Schoonover)、アーサーズ(Stanley M. Arthurs)といった画家である。パイルはウィルミントンで10年間で75人の学生を指導した。1905年にはウィルミントンの慈善家がパイルの最も成功した弟子の、ワイエス、スクーノーヴァー、ダン(Harvey Dunn)、アシュレー(Clifford Ashley)のための住居とスタジオを建てて、スクーノーヴァーはその建物に63年間住み続けた。

1911年にパイルが亡くなった後、1912年にアーサーズがパイルのスタジオを購入し、1950年まで美術学校を続けた。スクーノーヴァーも自らの美術学校を開いた。

作品編集

参考文献編集

  1. ^ A Summer Idyll: Landscapes from the Brandywine Valley Archived September 26, 2007, at the Wayback Machine.
  2. ^ McDonald, Edward D.; Edward M. Hinton (1942). Drexel Institute of Technology 1891 - 1941. Haddon Craftsmen, Inc.. pp. 126-130. ISBN 1406763748 
  3. ^ Austin, Vera (1976年). “National Register of Historic Places nomination form”. National Park Service. 2014年10月24日閲覧。
  4. ^ Pitz, Henry C. (1975). Howard Pyle. Writer, Illustrator, Founder of the Brandywine School.. New York: Clarkson N. Potter. pp. 110, 138. ISBN 978-0015751661 
  5. ^ May, Jill P.; May, Robert E. (2011). Howard Pyle: Imagining an American School of Art. Urbana: University of Illinois Press. pp. 99-107. ISBN 978-0252036262