ブルト・カヤBulut Qaya、? - 1265年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人官僚の一人。『元史』などの漢文史料では布魯海牙(bùlŭhǎiyá)、もしくは孛魯海牙(bólŭhǎiyá)と記される。

概要 編集

ブルト・カヤの家系は元来天山ウイグル王国に仕える貴族[1]であり、祖父のヤル・カヤと父のタイジ・カヤも首都ビシュバリクに居住して天山ウイグル王国に仕えていた[2]。ブルト・カヤは何らかの事情で幼くして両親を亡くし、母方の叔父に育てられて国書(ウイグル文字)を学び、また騎射にも精通するようになった。この頃に国王バルチュク・アルト・テギンがモンゴル帝国に服属することを決めると、ブルト・カヤは18歳にしてモンゴル帝国君主チンギス・カンに仕えそのケシク(親衛隊)に入ることになった。ブルト・カヤはモンゴルのホラズム・シャー朝征服においては労苦を厭わず任務に精励したため、チンギス・カンよりその功績を賞して羊・馬・ゲル(氊帳)を与えられ、更に西遼皇帝(グル・カン)の家系に連なる石抹氏(後の魏国夫人)を妻として与えられた[3]

チンギス・カンが死去した後、次のカアンと今後の方針を決定するため諸王がクリルタイを行う間、ブルト・カヤは燕京に派遣されて耶律楚材による河北漢民の税賦調査を手伝った。その後、その名声を聞きつけたチンギス・カンの末子のトルイの妻ソルコクタニ・ベキがブルト・カヤを召し抱え、トルイ家の投下領たる真定路のダルガチに任じた[4]。これ以後、ブルト・カヤの一族はトルイ家との関係を深めるようになり、後にブルト・カヤの子の廉希憲がトルイの次男のクビライの下で栄達していく遠因となった[5]

1231年(辛卯/太宗3年)、ブルト・カヤは燕南諸路廉訪使に任じられ、次いでジャルグチ(断事官)ともされた[6]。この頃、ダルガチの中にはモンゴル帝国の権威を笠に着て横暴な振る舞いをする者も多かったが、ブルト・カヤは細やかな心配りで以て職務に当たり、みだりに刑罰を用いるのを慎んだという[7]

また、この頃の河北では「軍籍」とされた者が賦役を嫌って代理の者を募集することや、軍から逃亡する者が多く見られることが問題視されており、ブルト・カヤはモンゴル人のブジルとともに順天路などで軍籍の調査を行うことになった。調査の結果代理を募集した者1万1千戸・逃亡者12名を検挙したが、ブルト・カヤは彼等の境遇を憐れんでその罪を軽減するよう働きかけた。一方、裕福な家の者が役所に行くことなく軍役から逃れようとする事例を発見した時は、後世の戒めとすべく死刑としたという[8]

1260年にクビライが即位すると、ブルト・カヤはソルコクタニ以来の縁から劉粛とともに真定路宣撫司に抜擢された[9]。ブルト・カヤはクビライの命によって中統鈔発行の準備をしたが、かつてソルコクタニがオルトクに多額の投資をしたことやモンケ即位に当たっての政事工作に多額の資金を使っていたため、資本が足りなくなる事態に陥った[10]。また、1261年(中統2年)には同じ宣撫使のサイイド・アジャッル姚枢らとともに大司農の初代役人にも選ばれ、また同時に御史大夫の肩書きも与えられている[11]

その後順徳路宣慰使に移った後、1265年に69歳にして亡くなった。息子には廉希閔・廉希憲・廉希恕・廉希愿・廉希尹・廉希顔・廉希魯・廉希貢・廉希中・廉希括らがおり、孫は53人もいた。息子達の中で最も活躍したのは廉希憲(ウイグル名はヒンドゥ)で、『元史』ではブルト・カヤとは別に巻126列伝13に立伝されている[12]

人物 編集

前述したように、ブルト・カヤは当時の河北の人々から慎重な勤務ぶりや、公平な司法態度、また孝友を重んじたことで知られていた。モンゴル帝国に仕えて立身出世した後、燕京に邸宅を構えるとウイグル本国から母親を迎え、また幼い頃のブルト・カヤを騙して財産を奪った叔父までも自らの邸宅の近くに住まうことを許したという。ブルト・カヤの家系は息子の世代から「廉」姓を名のるようになるが、これはブルト・カヤが廉訪使に任じられた時に偶然同時期に息子の廉希憲が生まれ、これを祝して「廉訪使」に由来する「廉」姓を名のるようになったという逸話が伝えられている[13][14]

脚注 編集

  1. ^ 後述するようにブルト・カヤはチンギス・カンの親衛隊(ケシク)に入るが、新たにケシクに入るのを許されるのは一般的に服属した部族・国家の王族の子弟などの貴人であり、ブルト・カヤがケシクに入れたというのは逆説的にその家系がウイグル王国内でかなり地位が高かったことを証明するため(山本 2014, p. 104)
  2. ^ ブルト・カヤの先祖がビシュバリク(北庭)に居住していたことは元明善「平章政事廉文正王神道碑」に「王姓廉氏、諱希憲、字善輔、北庭人」とあることから確かめられる(山本 2014, p. 104)
  3. ^ 山本 2014, p. 105.
  4. ^ 『元史』巻125列伝12布魯海牙伝,「布魯海牙、畏吾人也。祖牙児八海牙、父吉台海牙、倶以功為其国世臣。布魯海牙幼孤、依舅氏家就学、未幾、即善其国書、尤精騎射。年十八、隨其主内附、充宿衛。太祖西征、布魯海牙扈従、不避労苦、帝嘉其勤、賜以羊馬氊帳、又以居里可汗女石抹氏配之。太祖崩、諸王来会、選使燕京総理財幣。使還、荘聖太后聞其廉謹、以名求之於太宗、凡中宮軍民匠戸之在燕京・中山者、悉命統之、又賜以中山店舎園田・民戸二十、授真定路達魯花赤」
  5. ^ 山本 2014, p. 106.
  6. ^ 但し、漢語の「廉訪使」とモンゴル語の「ジャルグチ」は共通の職掌を有するものであったとする説もある(山本 2014, p. 106)
  7. ^ 『元史』巻125列伝12布魯海牙伝,「辛卯、拝燕南諸路廉訪使、佩金虎符、賜民戸十。未幾、授断事官、使職如故。時断事官得専生殺、多倚勢作威、而布魯海牙小心謹密、慎于用刑。有民誤殴人死、吏論以重法、其子号泣請代死、布魯海牙戒吏、使擒于市、懼則殺之。既而不懼、乃曰『誤殴人死、情有可宥、子而能孝、義無可誅』。遂併釈之、使出銀以資葬埋、且呼死者家諭之、其人悦従。是時法制未定、奴有罪者、主得専殺、布魯海牙知其非法而不能救、嘗出金贖死者数十人」
  8. ^ 『元史』巻125列伝12布魯海牙伝,「征討之際、隷軍籍者、憚於行役、往往募人代之、又軍中多逃帰者、朝廷下制、募代者杖百、逃帰者死。命布魯海牙与断事官卜只児按順天等路、及至州県、得募人代者万一千戸・逃者十二人。然募者聞命将下、已遣家人易代募者、布魯海牙聞之、歎曰『募者已懼罪往易、逃者因単弱思帰、情皆可矜、吾可不伸理耶』。遂奏其状、皆得軽減。有丁多産富而家人不往、及未至役所而即逃者、則曰『此而不殺、何以戒後』。有窃妓逃者、吏論当死、布魯海牙曰『敗乱綱常、罪固宜死。此妓也、豈可例論』。命杖之。其執法平允類如此」
  9. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「乙未(中統元年)、立十路宣撫司……孛魯海牙・劉粛並為真定路宣撫使」
  10. ^ 宮 2018, p. 652-653.
  11. ^ 宮 2018, p. 329-330.
  12. ^ 『元史』巻125列伝12布魯海牙伝,「世祖即位、選択信臣宣撫十道、命布魯海牙使真定。真定富民出銭貸人者、不踰時倍取其息、布魯海牙正其罪、使償者息如本而止、後定為令。中統鈔法行、以金銀為本、本至、乃降新鈔。時荘聖太后已命取真定金銀、由是真定無本、鈔不可得。布魯海牙遣幕僚邢澤往謂平章王文統曰『昔奉太后旨、金銀悉送至上京、真定南北要衝之地、居民商賈甚多、今旧鈔既罷、新鈔不降、何以為政。且以金銀為本、豈若以民為本。又太后之取金帛、以賞推戴之功也、其為本不亦大乎』。文統不能奪、立降鈔五千錠、民賴以便。俄遷順徳等路宣慰使、佩金虎符。来朝、帝命坐、慰労之、賜以海東青鶻。至元二年秋卒、年六十九」
  13. ^ 『元史』巻125列伝12布魯海牙伝,「布魯海牙性孝友、造大宅於燕京、自畏吾国迎母来居、事之、得禄不入私室。幼時叔父阿里普海牙欺之、尽有其産、及貴顕、築室宅旁、迎阿里普海牙居之、弟益特思海牙以宿憾為言、常慰諭之、終無間言。帝嘗賜以太府綾絹五千匹、絲絮相等、弟求四之一納其国賦、尽与之、無吝色。初布魯海牙拝廉使、命下之日、子希憲適生、喜曰『吾聞古以官為姓、天其以廉為吾宗之姓乎』。故子孫皆姓廉氏。後或奏廉氏仕進者多、宜稍汰去、世祖曰『布魯海牙功多、子孫亦朕所知、非汝当預』。大徳初、贈儀同三司・大司徒、追封魏国公、諡孝懿。子希閔・希憲・希恕・希愿・希尹・希顔・希魯・希貢・希中・希括、孫五十三人、登顕仕者代有之、希憲自有傳」
  14. ^ ただし、廉希憲はブルト・カヤの次男であって、その誕生と改姓を結びつける理由は弱く、後に廉希憲が出世したことから後に作り上げられた逸話ではないかとする説もある(山本 2014, p. 109)

参考文献 編集

  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 山本, 光朗廉希憲について: 元代における色目人の改姓と漢化 (1)」『北海道教育大学紀要』第65巻第1号、2014年、101-117頁、doi:10.32150/00006283 
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会〈上下巻〉、2018年。 NCID BB25701312全国書誌番号:23035507  上巻 ISBN 9784815809003、下巻 ISBN 9784815809010
  • 元史』巻125列伝12