ペテル・ヴァイス
ペテル・ヴァイス(Peter Weiss、1952年7月7日 – )は、スロバキアの政治家、外交官、大学教員。駐ハンガリー大使(2009年–2013年)、駐チェコ大使(2013年)を歴任。
ペテル・ヴァイス | |
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Peter Weiss | |
個人情報 | |
生誕 | 1952年7月7日(72歳) ブラチスラヴァ(チェコスロバキア共和国) |
政党 | |
出身校 | コメンスキー大学 |
ビロード革命以前
編集1952年にチェコスロバキア共和国のブラチスラヴァで誕生。ブラチスラヴァのコメンスキー大学哲学部に入り、1975年に成人教育学を、1978年に哲学領域を修了[1]。
1975年から1989年までブラチスラヴァのスロバキア共産党中央委員会マルクス・レーニン主義研究所で勤務。1984年以降は科学職として働き、専ら政治および科学に関する問題を扱った。彼の発表研究として「社会科学の開発に関する問題」(1989年)が挙げられる。ヴァイスはマルクス・レーニン主義、科学的社会主義、そしてそれらの主義を社会生活に適用するための理論の注力した。
1989年11月
編集1989年11月のビロード革命の日、ヴァイスは共産党の代表としてスロバキアテレビの番組「研究対話」に出演し、共産主義に反対するミラン・クニャシュコ、フェドル・ガール、ヤーン・ブダイ、ヴラジミール・オンドルシュらと討論した。ヴァイスは議論の場に登場する数少ない共産党指導者であり、知名度は向上した。
1989年以降
編集1989年11月以降、ペテル・ヴァイスはスロバキア共産党の党首に就任。ヴァイスは社会民主主義を志向したグループの主要人物の一人であり、党の改革を推進した。彼は1990年にスロバキア共産党の党名を民主左翼党に改称、1996年まで党首を務めた。ヴァイスは1990年に国民議会議員に当選、1992年からは国民議会の副議長を務めた。
1994年3月、スロバキア運動のヴラジミール・メチアル内閣が倒れ、スロバキア民主連合のヨゼフ・モラウチークを首相とする反メチアル連立政権が発足。ヴァイスは民主左翼党がモラウチーク政権に加わる条件として、早期に選挙を実施することを求めた。モラウチーク政権はこれを受け入れ、任期満了を待たず早期に選挙実施することを発表した。そして1994年の国民議会選挙、民主左翼党はスロバキア社会民主党ら中道左派政党と政党連合「共通の選択」を組んで議席を獲得、短期間ながら政権入りした。1998年、民主左翼党はヨゼフ・ミガシュの指導の下、国民議会選挙で単独23議席を獲得。ミクラーシュ・ズリンダを首相とする政権に連立与党として入った。この期間、ヴァイスは国民議会の議員でもあった。2002年、ヴァイスは党内での意見の相違により民主左翼党を離脱。ブリギダ・シュメグネロヴァー前財務大臣らとともに、社会民主オルタナティヴを結成した。しかしながら2002年の選挙では足切り条項である最低得票ライン5%を突破できず、国民議会の議席を失った。そして2004年12月31日、方向・社会民主主義との合併により社会民主オルタナティヴは消滅した。
政治活動への積極的な関与を退いた後、ヴァイスは大学教員となり、また様々なメディアに登場した。彼は2009年から2013年まで駐ハンガリー大使を、2013年から2015年まで駐チェコ大使を務めた[2] 。
私生活
編集ペテル・ヴァイスには2度の結婚歴がある。最初の妻マルセラは2003年に自殺した[3]。
参考文献
編集- ^ “Veľvyslanec Peter Weiss sa dožíva 60 rokov”. teraz.sk (Bratislava: TASR). (2012-07-07) 2017年9月17日閲覧。.
- ^ “Od čiernej diery na mape Európy k druhej šanci” (スロバキア語). Pravda.sk. (2018-09-26) 2018年9月26日閲覧。.
- ^ “Manželku Petra Weissa našli včera mŕtvu v poli”. sme.sk (Bratislava: Petit Press). (2003-08-15). ISSN 1335-4418 2017年9月17日閲覧。.