マリー・ド・ブロワ (アンジュー公妃)
マリー・ド・ブロワ(Marie de Blois, 1345年 - 1404年)は、ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワとパンティエーヴル女伯ジャンヌの娘。アンジュー公・名目上のナポリ王ルイ1世の妃。
マリー・ド・ブロワ Marie de Blois | |
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出生 |
1345年 |
死去 |
1404年 |
配偶者 | ルイ1世・ダンジュー |
子女 |
マリー ルイ2世 シャルル |
家名 | シャティヨン家 |
父親 | ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワ |
母親 | ジャンヌ・ド・パンティエーヴル |
生涯
編集マリーは1360年にフランス王ジャン2世の息子ルイ1世と結婚した[1]。この結婚により夫の称号は増加したが、実際にナポリ王国を統治することはなかった。1384年にルイ1世が亡くなると、プロヴァンスのほとんどの町が息子ルイ2世に対して反乱を起こした。マリーは貴重品を質に入れて軍隊を結成した。
マリーと幼い息子、そして軍隊は支援を得るために町から町へと移動した。1387年、ルイ2世はプロヴァンス伯として正式に認められた。その後マリーはフランス王シャルル6世に対し、息子のナポリ獲得を支援するよう訴えた。1390年、ルイ2世は教皇とフランスの支援を受けてナポリへ向けて出航した。マリーはアラゴンがルイ2世を妨害しないように、ルイ2世とヨランド・ダラゴンとの結婚交渉を行った[2]。
ルイ2世とヨランドは1400年に結婚した[3]。マリーは有能な統治者であり、死の床でルイ2世に20万エキュを貯めていたことを明かした。これは、ルイ2世が捕まった場合にマリーが身代金を支払えるようにするためのものであった。
子女
編集脚注
編集参考文献
編集- Potter, David (1995). A History of France, 1460-1560: The Emergence of a Nation State. St. Martin's Press
- Rohr, Zita Eva (2016). Yolande of Aragon (1381-1442) Family and Power: The Reverse of the Tapestry. Palgrave Macmillan