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生涯編集

王太子時代の1332年ボヘミア(ベーメン)王ヨハン(ジャン、ヤン)の娘ボンヌと結婚し、王太子シャルルアンジュー公ルイベリー公ジャンブルゴーニュ公フィリップらをもうけたが、ボンヌは夫の即位前の1349年黒死病で死去した[1]。同年、オーヴェルニュ女伯ジャンヌと再婚した。

1350年、父フィリップ6世の死により後を継いで即位した。当時のフランスはイングランドとの百年戦争の渦中にあり、ジャン2世は父の遺志を継いでイングランドに対抗した。1355年エドワード黒太子率いるイングランド軍がギュイエンヌに侵攻してくると、これに対抗しようと王太子である長子シャルルと共に出陣し、翌1356年ポワティエの戦いにてイングランド軍と激突したが、ジャン2世は戦上手で知られたエドワード黒太子の敵ではなく、軍は大敗して自身は捕虜となった[2][3]

その後、フランスは王太子シャルルが摂政として統治した[4]。ジャン2世はエドワード黒太子から手厚い処遇を受け、イングランドでの旅行も許された。1360年ブレティニー条約が結ばれると、子のルイが代わりに人質になることで解放された。しかし、1363年7月にルイが脱走したためやむなくイングランドに渡った[5]。1364年にロンドンにて虜囚のままで没し[6][7]、後をシャルルが継いだ。

家族編集

最初の妻ボンヌ・ド・リュクサンブールとの間には4男7女をもうけた。

2度目の妻ジャンヌ・ドーヴェルニュとの間には2女をもうけたが、いずれも夭逝した。

  • ブランシュ(1350年)
  • カトリーヌ(1352年)

脚注編集

  1. ^ 佐藤、p. 42
  2. ^ 佐藤、p. 52
  3. ^ 朝治 他、p. 117
  4. ^ 佐藤、p. 56
  5. ^ 佐藤、p. 66
  6. ^ 佐藤、p. 37
  7. ^ 朝治 他、p. 119

参考文献編集

  • 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
  • 朝治啓三 他 『中世英仏関係史 1066-1500』 創元社、2012年