マーマデューク・コンスタブル=マクスウェル (第11代テレグルスのヘリーズ卿)

第11代テレグルスのヘリーズ卿マーマデューク・フランシス・コンスタブル=マクスウェル英語: Marmaduke Constable-Maxwell, 11th Lord Herries of Terregles1837年10月4日1908年10月5日)は、イギリスの貴族。

生涯

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第10代テレグルスのヘリーズ卿ウィリアム・コンスタブル=マクスウェルとマーシア・ヴァヴァソア(Marcia Vavasour、1816年ごろ – 1883年11月13日、初代準男爵サー・エドワード・ヴァヴァソアの娘)の息子として、1837年10月4日に生まれ、ストーニーハースト・カレッジ英語版で教育を受けた[1]

1876年11月12日に父が死去すると、テレグルスのヘリーズ卿の爵位を継承した[1]。1884年11月10日、連合王国貴族であるイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーにおけるエヴァリンガムおよびダンフリーズシャー英語版におけるカラヴェロック城のヘリーズ男爵に叙された[1]

1875年4月14日、アンジェラ・メアリー・シャーロット・フィッツアラン=ハワード(Angela Mary Charlotte Fitzalan-Howard、1855年2月24日 – 1919年3月1日、初代グロソップのハワード男爵エドワード・フィッツアラン=ハワード英語版の娘)と結婚[1]、2女をもうけた[2]

1880年にイースト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監英語版に任命され[1]、1885年5月26日にカークブリー統監に任命され、1908年に死去するまで務めた[3]

1883年時点でイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーに6,858エーカーの土地を、リンカンシャーに2,800エーカーの土地を、ダンフリーズシャー英語版に5,814エーカーの土地を、カークブリーシャー英語版に3,423エーカーの土地(合計で年収19,152ポンド相当の18,895エーカーの土地)を所有していた[1]

1908年10月5日に死去[2]、ヘリーズ男爵位は廃絶、テレグルスのヘリーズ卿位は長女グウェンドリン英語版が継承した[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Warrand, Duncan; Howard de Walden, Thomas, eds. (1926). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Gordon to Hustpierpoint). Vol. 6 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 497.
  2. ^ a b c d Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1386. ISBN 2-940085-02-1
  3. ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lord-Lieutenants of Counties (Scotland) 1794-". Institute of Historical Research (英語). 2019年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月21日閲覧
名誉職
先代
ウェンロック男爵英語版
イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監英語版
1880年 – 1908年
次代
ナンバーンホルム男爵英語版
先代
セルカーク伯爵英語版
カークブリー統監
1885年 – 1908年
次代
ロバート・フランシス・ダッジョン英語版
イギリスの爵位
爵位創設 ヘリーズ男爵
1884年 – 1908年
廃絶
スコットランドの爵位
先代
ウィリアム・コンスタブル=マクスウェル
テレグルスのヘリーズ卿
1876年 – 1908年
次代
グウェンドリン・フィッツアラン=ハワード英語版