モーリハイ(? - 1469年?[1])は、北元の部族長。オンリュート部の指導者。

チンギス・ハーンの同母弟であるジョチ・カサルの後裔[2]、あるいはチンギスの異母弟ベルグテイの後裔[3]と言われる。漢文史料では毛里孩と表記される。

1454年オイラト部族エセンが殺害された後、ハラチン部のボライ・タイシの下でモンゴル高原で勢力を拡大した。1465年にボライがマルコルギス・ハーンを殺害した後、ボライを暗殺する[1]。部下からハーンへの即位を進められるが辞退し[1][3]、マルコルギスの異母兄であるモーランを擁立する。敵対者である斡羅出を追放してモンゴル内の実権を握り、大同に侵入した[4]

1466年にモーランを殺害した後、モーリハイは新たなハーンを立てず、北元の空位時代が始まった[2]1467年に明の皇帝成化帝は撫寧侯・朱永らにモーリハイ討伐を命じるが、モーリハイが通貢を願い出たため遠征は取りやめになった[4]。翌1468年、明の給事中・程万里はモーリハイの討伐を奏上するが、彼の意見は容れられなかった。

モーリハイはジョチ・カサルの後裔であるホルチン部のウネバラトに敗れて没落し[1][5]、クングイ・ジャブハンの宿営地で6人の子と共に殺害された[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 松村「モーリハイ」『アジア歴史事典』9巻、64頁
  2. ^ a b 森川「明代のモンゴル 分裂と抗争の時代」『北アジア史』、93頁
  3. ^ a b 岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、69-70頁
  4. ^ a b 『騎馬民族史 正史北狄伝』3巻、24頁
  5. ^ 岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、70頁

参考文献 編集

  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店, 2010年11月)
  • 松村潤「モーリハイ」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
  • 森川哲雄「明代のモンゴル 分裂と抗争の時代」『北アジア史』収録(竺沙雅章監修, アジアの歴史と文化7, 同朋舎, 1999年4月)
  • 『騎馬民族史 正史北狄伝』3巻(羽田明、佐藤長 他訳注、東洋文庫, 平凡社, 1973年3月)