ヨーゼフ・モイセエフスキー・シリンガー(Joseph Moiseyevich Schillinger、ロシア語: Иосиф Моисеевич Шиллингер1895年9月1日 - 1943年3月23日)は、作曲家音楽理論家であり、音楽作曲シリンガー・システム英語版を編み出した作曲法の教師である。シリンガーは、ロシア帝国ハリコフ県ロシア語版ハリコフ(現在のウクライナのハルキウ)に生まれ、ニューヨークで没した。

ヨーゼフ・シリンガーとリズミコン (Rhythmicon)。

日本語では、名の英語読みを音写し、ジョセフ・シリンガーなどとする表記も見られる[1]

経歴 編集

幼い頃から音楽に才能を示し、作曲なども始め、サンクトペテルブルク音楽院に進み、やがてロシア革命直後の時期に音楽教師となった[2]。学生時代から、数理的手法を用いた音楽理論の構築に関心を寄せていたとされる[2]

1928年に初めてニューヨークを訪れたが、そのまま帰国せずに定住してしまう[2]1931年からはレオン・テルミンと協力して電子楽器の開発に乗り出し、1932年には私塾を開いてポピュラー音楽関係の作曲家などの指導に当たるようになった[2]。シリンガーに作曲理論を学んだ者の中には、ジョージ・ガーシュウィングレン・ミラーなどがいた[2]

ジョージ・ガーシュウィンは、1932年から1936年にかけてシリンガーの下で学んだ。この時期にガーシュウィンは『ポーギーとベス』を作曲しており、このオペラに関しても、特にオーケストレーションについて、シリンガーに相談を持ちかけていた。シリンガーがガーシュウィンに与えた影響の性格については、見解が分かれている。ガーシュウィンの死後に『ポーギーとベス』が成功を収めると、シリンガーはこの作品の創作に関して自分が全面的に後見し、大幅かつ直接的に影響を与えていると主張した。ガーシュウィンの兄であるアイラ・ガーシュウィンは、弟は作品作りに何らの援助も受けていないとして、シリンガーの主張を全面的に否定した。シリンガーとガーシュウィンの師弟関係に関する、第三の立場からの説としては、ガーシュウィンの親友で、同じくシリンガーの弟子であったヴァーノン・デュークが書いて、1947年に『The Musical Quarterly』誌に掲載された文章がある[3]。ガーシュウィンが、シリンガーの下で学んでいた時に書き留めたノート類の一部は、アメリカ議会図書館に所蔵されている。

シリンガーは、1936年アメリカ合衆国の市民権を得、その後、独自の音楽理論をまとめた『芸術の数学的基礎 (Mathematical Basis of the Airs)』を著したが、それが出版に至らないまま、1943年に没した[2]。また、シリンガーの死後、その講義ノートを編集した『音楽作曲のシリンガー・システム (The Schillinger System of Musical Composiction)』が出版された[2]

シリンガーの弟子の一人であったローレンス・バーク英語版は、1945年に自らが主宰する私塾をボストンに設け、これを師にあやかって「シリンガー・ハウス (Schillinger House)」と名付けたが、この私塾が後のバークリー音楽大学の起源となった[2][4]

脚注 編集

  1. ^ 金子将昭 (2013年10月31日). “Vol.4 シリンガーシステムをちょっと紹介。音楽を科学的に分析した最初の人!?”. 音楽理論マガジンCIRCLE/金子将昭. 2017年7月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 川本悠自 (2013年11月25日). “【コラム】vol.4 川本悠自のROOT NOTE of JAZZ〜ジャズの歴史をたどる旅”. 音楽理論マガジンCIRCLE/金子将昭. 2017年7月18日閲覧。
  3. ^ Dukelsky, Vladimir (Vernon Duke) (1947). “Gerswhin, Schillinger, and Dukelsky: Some Reminiscences”. The Musical Quarterly 33: 102–115. doi:10.1093/mq/xxxiii.1.102. http://mq.oxfordjournals.org/content/XXXIII/1/102.full.pdf+html 2011年4月22日閲覧。. 
  4. ^ バークリー音楽大学/Berklee College of Music”. アンドビジョン. 2017年7月18日閲覧。