ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1907-1994)

プロイセン及びドイツの王族、軍人

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンドイツ語: Louis Ferdinand von Preußen, 1907年11月9日 - 1994年9月25日)は、プロイセン及びドイツの王族、軍人。ヴィルヘルム2世の孫の一人。息子のルイ・フェルディナントと区別するため「大ルイ・フェルディナント」あるいは「ルイ・フェルディナント1世」とも呼ばれる。

ルイ・フェルディナント
Louis Ferdinand
ホーエンツォレルン家
ルイ・フェルディナント(1927年頃)

全名
称号 プロイセン王子
敬称 殿下
出生 (1907-11-09) 1907年11月9日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国ポツダム、大理石宮殿
死去 (1994-09-25) 1994年9月25日(86歳没)
ドイツの旗 ドイツブレーメン州ブレーメン
埋葬 1994年10月1日
ドイツの旗 ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン行政管区ツォレルンアルプ郡、ホーエンツォレルン城
配偶者 キーラ
子女
父親 ヴィルヘルム
母親 ツェツィーリエ
役職 空軍大尉
宗教 キリスト教古プロイセン合同福音主義教会
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生涯

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祖父ヴィルヘルム2世夫妻とルイ・フェルディナント兄弟(1911年)

1907年11月9日ドイツ皇太子ヴィルヘルムの次男としてポツダム大理石宮殿英語版で生まれる。母はメクレンブルク=シュヴェリーン大公女ツェツィーリエ。11歳の時の1918年第一次世界大戦敗戦により、ドイツ帝国は崩壊。

第二次世界大戦中は、兄のヴィルヘルム1940年にフランス戦線で戦死したため、アドルフ・ヒトラーホーエンツォレルン家の兵役を禁じたこともあり、妻キーラと共に東プロイセンにある王家の土地で生活をしていた。1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件では、反ヒトラー派の人々(君主主義者が多かった)と面識・交流があったことから、事件直後にゲシュタポから尋問を受けているが、逮捕・起訴されることは無かった。

1951年の父ヴィルヘルム死去に際して、プロイセン王家の家長の座についた。1994年に死去したときは三男のルイ・フェルディナントが事故死していたため、孫のゲオルク・フリードリヒが継いだ。

子女

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夫人のキーラロシア大公キリルの次女)の間に4男3女を儲けた。

 
ルイ・フェルディナント夫妻の日本訪問(1938年9月)
先代
ヴィルヘルム
プロイセン王家家長
1951年 - 1994年
次代
ゲオルク・フリードリヒ