レフ・ヴィトゲンシュテイン
レフ・ペトロヴィチ・ヴィトゲンシュテイン(露:Лев Петро́вич Витгенште́йн, 1799年6月8日 - 1866年6月20日)は、帝政ロシアの貴族で、ドイツのシュタンデスヘル。ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク侯(Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Ludwigsburg, 1843年 - 1861年)、のちザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯(Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Sayn, 1861年 - 1866年)。ドイツ名はルートヴィヒ・アドルフ・フリードリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン(Ludwig Adolf Friedrich Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Sayn)。
レフ・ヴィトゲンシュテイン Лев Петрович Витгенштейн | |
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レフ・ヴィトゲンシュテイン、フランツ・クリューガー画、1836年 | |
出生 |
1799年6月8日 ロシア帝国、コフノ |
死去 |
1866年6月20日(67歳没) フランス帝国、カンヌ |
配偶者 | ステファニア・ラジヴィウ |
レオニーラ・イヴァノヴナ・バリャティンスカヤ | |
子女 | マリー 他 |
家名 | ザイン=ヴィトゲンシュタイン家 |
父親 | ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯ペーター |
母親 | アントニア・スナルスカ |
生涯
編集ロシアの陸軍元帥ピョートル・ヴィトゲンシュテイン(ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯ペーター)と、その妻でポーランド貴族のアントニア・スナルスカ伯爵夫人の間の長男として生まれた。1821年、イギリス王ジョージ4世の戴冠式にロシア政府代表の1人として出席した。しかしデカブリストの主義主張に共鳴していたため、1826年にデカブリストが蜂起した後は、ロシア政府における外交官としてのキャリアを断念させられた。父の政府に対する強大な影響力のおかげで、処罰だけは免れた。
1828年、リトアニア有数の大貴族ラジヴィウ家の女子相続人ステファニア・ラジヴィウ公女(Stefania Radziwiłł、1809年 - 1832年)と結婚した。ステファニアは当時のヨーロッパ大陸では最大の個人資産を所有しており、旧リトアニア大公国領内の多くの町村を含む約1万2000km²の所領をレフにもたらした。またこの際、現在は世界遺産として知られるミール城もレフの所有に帰した。
ステファニアと死別後、1834年に親類のレオニーラ・イヴァノヴナ・バリャティンスカヤ公女と再婚した。先妻との間に1男1女、後妻との間に3男1女をもうけた。ステファニアの遺産を受け継いだ長女のマリー(1829年 - 1897年)はホーエンローエ=シリングスフュルスト侯クロートヴィヒに嫁いでいる。