一糸文守

1608-1646, 江戸時代の臨済宗の僧
一絲文守から転送)

一糸 文守(いっし ぶんしゅ、慶長13年(1608年)- 正保3年3月19日1646年5月4日))は、江戸時代臨済宗岩倉具堯の三男、母は園基継の娘。後水尾天皇に近侍した。諡は仏頂国師。道号は一絲とも表記する。

一糸文守頂相(松雲寺蔵)

寛永3年(1626年)に真言宗西明寺賢俊良永により得度して法名を文守としたが、翌年、大徳寺の沢庵宗彭の影響により臨済宗に転宗した。寛永6年(1628年)沢庵宗彭が紫衣事件により出羽国に配流されると、これに従ったが、翌年には一人で京に戻った。このころより近衛信尋などの公家との交流が深まるが、後水尾上皇との交流も弟近衛信尋の仲介によるものとされる。寛永11年(1634年)、丹波国に桐江庵(のちの法常寺)を建立し住んだが、しばしば上皇は京に呼び寄せている。寛永15年(1638年)、上皇は京都西賀茂に霊源庵(のちの霊源寺)を建て、そこに一糸を住まわせたが、同年末には桐江庵に戻された。そこで上皇は寛永18年(1641年)、桐江庵を法常寺とし、一糸を開山とした。寛永20年(1643年)、当時の住持の求めに従い、近江永源寺に住し、寺の中興に力を尽くした。その3年後、正保3年(1646年)3月19日、39歳で逝去。没後30年目の延宝3年(1675年)、後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られた。

参考文献 編集

  • 熊倉功夫『後水尾院』、朝日新聞社、1982年
  • 久保貴子『後水尾天皇』、ミネルヴァ書房、2008年