三上 政実(みかみ まさざね)は、室町時代中期から戦国時代の人物で、因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持っていた三上氏の一族。

 
三上政実
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
官位 兵庫頭
幕府 室町幕府
主君 足利義尚
氏族 三上氏
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政実は文明12年(1480年7月27日付の「政所賦銘引付」に見える。それによれば政実の曽祖父は近江入道周通であるといい、後の兵庫頭経実はその名乗り、官職を踏まえて政実の子供あるいは孫である可能性が高い。少なくとも政実は経実と非常に近い血縁関係を有していたと考えられる。当時は建仁寺と「三条坊領東洞院屋地」を巡って相論しており、同年11月には土地に関して「曽祖父の近江入道以来代々知行していたが、自身が幼少時に伯母に当たる人物が文書を盗み出し、建仁寺に売却してしまった」と反論している。

このほか、政実は文明17年(1485年9月16日日野富子伊勢神宮参拝に供奉し[1]長享元年(1487年9月12日の義尚の六角氏攻撃による近江国出陣の際にも奉公衆の五番衆として従軍している[2]

文献上では政実以降、三上氏は「兵庫頭」の官職を名乗っている。

脚注 編集

  1. ^ 『親元日記』文明17年9月16日条
    “上様(日野富子のこと)御参宮
    御供衆次第不同
    大和佐渡守、毛利次郎、塩冶三河守、丹比左近将監、西郡四郎、三上兵庫頭(政実)、中条与次郎、松田廉田又次郎”
  2. ^ 群書類従『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』

参考文献 編集

『親元日記』