三矢新太郎
明治、大正期に魚屋を営んでいた人物
三矢 新太郎(みつや しんたろう、生没年不詳)は、明治、大正期に魚屋を営んでいた人物。早稲田大学野球部の熱狂的なファンとして知られ[1]、スポーツ雑誌に記事が載ることもあった[2]。
人物
編集生年、経歴など不明。東京市牛込区(現・東京都新宿区)早稲田鶴巻町の魚屋であったが、熱狂的な早大野球部ファンであり、試合があれば欠かさず応援に行っていた[3]。そのうちにいつしか、周囲から「魚屋の新公」「魚新」などの通称で呼ばれ[4]、『運動世界』など当時のスポーツ雑誌に記事や写真が載るほどまでに有名になった。1910年(明治43年)、来日したウィスコンシン大学と早稲田との試合があった際には、「肴屋の審判評」という談話が『運動世界』に掲載されてさえいる。また、野球雑誌『FAN』に、「魚新君に苦言す」という同業者からの批判投書が掲載されたこともあった。
その後、野球部に出入りしているうちに庭球部も手伝うようになり、その経験からテニスコート職人に転業した[5]。飛田穂洲の『飛田穂洲選集』の中には、「大正9年ごろまで野球部に出入りし、試合の度に世話を焼いていたが、コート職人の仕事が忙しくなり姿を見せなくなった」「しかし、早稲田がある試合に勝ったとき三矢から贈り物が届き、やはり彼は野球のことを忘れてはいないのだ、とうれしい気持ちがした」という内容の記述があり、これが三矢の文献に登場する最後の姿となる。これ以降の消息は不明である[6]。
参考文献
編集- 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年
- 押川春浪『蛮勇豪語』九十九書房、1914年、307頁。doi:10.11501/951933。 NCID BB05112862。OCLC 673464229。国立国会図書館書誌ID:000000567077 。2023年3月11日閲覧。
- 飛田穂洲『野球生活の思ひ出』朝日新聞社、1928年、184-188頁。doi:10.11501/1195211。 NCID BA43699372。OCLC 672436157。国立国会図書館書誌ID:000000782390 。2023年3月11日閲覧。
- 飛田穂洲『野球清談』東海出版社、1940年、164頁。doi:10.11501/1240082。 NCID BA49752398。OCLC 673223864。国立国会図書館書誌ID:000000734824 。2023年3月11日閲覧。