上野八十吉

日本の柔術家

上野 八十吉(うえの やそきち、1880年明治13年〉9月15日 - 1942年昭和17年〉7月24日)は、日本柔術家である。号は光斎、名は正幸。

うえの やそきち

上野 八十吉
生誕 1880年明治13年)9月15日
東京
死没 1942年昭和17年)7月24日
国籍 日本の旗 日本
別名 上野光斎、上野正幸
職業 柔術家
柔道整復師
銀行員
団体 東京府柔道整復師会
大日本武徳会
日本古武道振興会
流派 戸塚派楊心流
向井流水法
肩書き 大日本武徳会柔道教士
東京府柔道整復師会理事
子供 上野徳太郎
上野辰男
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柔術関係では上野光斎と書かれることが多い。

経歴

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1880年明治13年)9月15日、東京に生まれる[1][2]

1897年(明治30年)、下谷龍泉寺町にあった大木友藏の練武館に入り戸塚派楊心流を修行し、後に楊心流初傳目録を授かった[1]

1900年(明治33年)、戸塚派楊心流師範の大竹森吉の道場に入門した。1906年(明治39年)、下谷区に第二練武館道場を開設し柔術教授の傍ら接骨を行った。

1912年昭和2年)5月に大日本武徳会より柔道精錬證を受けた。1913年(昭和3年)11月に柔道教士の称号を受けた。

1942年(昭和17年)7月24日死去[2]

1938年(昭和13年)『週刊朝日』の記事によると、父を早くに亡くしたため身体を丈夫にしておかなければならないという理由から昼は銀行に出ていたが夜に帰り、体を鍛えるべくやっていたと述べている。ある時、柔道の先生でも治らない怪我を治したことから、患者が朝に来るようになり銀行を遅刻するようになったという。

上野の師匠が戸塚から伝授を受ける際に「戸塚派楊心流」と名乗れと言われたことから、上野自身も流派名を戸塚派楊心流としていた[注釈 1]

柔道整復術公認運動に参加しており、大日本柔道整復師会結成後は東京府柔道整復師会に所属していた[3]

1908年頃(明治41年)に妻や娘、女中に袖の短い柔術着を着せて柔術の形や初歩的な乱捕を教えていた[4]


脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の戸塚派楊心流は系統により楊心流、楊心古流、楊心流戸塚派など複数の名称が使われていた。上野光斎の同門の深井子之吉も流派名を戸塚派楊心流としていた。

出典

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  1. ^ a b 宮内省 監修『昭和天覧試合 : 皇太子殿下御誕生奉祝』大日本雄弁会講談社、1934年
  2. ^ a b 向井流東京上野門下連絡会(2018)「東京における向井流の断片」,『向井流東京上野門下連絡会 指導教本』2018年7月1日
  3. ^ 日本柔道整復師会 編『日整六十年史』社団法人日本柔道整復師会、1978年
  4. ^ 上野徳太郎「野次馬意見」,『柔道 第二十六巻 第一号』1955年1月,p15,講道館

参考文献

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  • 東京日日通信社 編『昭和大典記念 自治産業発達史』東京日日通信社、1928年
  • 宮内省 監修『昭和天覧試合 皇太子殿下御誕生奉祝』大日本雄弁会講談社、1934年
  • 向井流東京上野門下連絡会(2018)「第三章 東京における向井流の断片」,『向井流東京上野門下連絡会 指導教本』2018年7月1日
    "向井流東京上野門下連絡会"2022年1月20日閲覧
  • 中野銀郎著『接骨學會紳士録』接骨學會事務局,1936年
  • 日本柔道整復師会 編『日整六十年史』社団法人日本柔道整復師会、1978年
  • 川内鉄三郎 著『日本武道流祖伝』日本古武道振興会、1935年
  • 「古武道の心髄を語る(座談会)」,『週刊朝日』1938年6月26日号, p12~16, 朝日新聞社.
  • 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933
  • 上野徳太郎「野次馬意見」,『柔道 第二十六巻 第一号』1955年1月,p15,講道館

関連項目

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