上野篤
日本の政治家、第7代鹿児島市長
上野 篤(うえの あつし、1882年〈明治15年〉4月8日[1] - 1926年〈大正15年〉9月23日[1])は、日本の政治家。第7代鹿児島市長[1]。
上野 篤 うえの あつし | |
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『鹿児島市水道誌』鹿児島市、1928年 | |
生年月日 | 1882年4月8日 |
出生地 | 日本 鹿児島県 |
没年月日 | 1926年9月23日(44歳没) |
死没地 | 日本 広島県安芸郡中野村 |
出身校 | 東京高等師範学校 |
前職 | 鹿児島市助役 |
所属政党 | 無所属 |
在任期間 | 1925年5月 - 1926年9月23日 |
経歴
編集東京高等師範学校卒業[1]。卒業後は鳥取県師範学校で教鞭を執った[1]。その後、大阪市役所に入り主事となり[1]、財団法人協調会参事を務めた。1923年(大正12年)、当時の鹿児島市長伊集院俊に迎えられ、助役に就任する[1]。
1925年(大正14年)2月4日、伊集院が死去。上野は市長代理を経て、同年5月28日付で正式に市長に就任する[1]。市長就任後は市章の制定、青少年教育の充実、学校施設の整備、市公会堂の建設など数々の業績を挙げた[1][2][3]。
1926年9月、妻子を連れて公務のため上京。その帰途の9月23日、山陽本線特急列車脱線事故に遭遇する[1]。上野は息子(当時4歳)とともに死亡、妻は重傷を負った[1][3]。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 『日本の歴代市長』 第3巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『鹿児島市史』 第2巻、鹿児島市、1970年。
- 勝目清 著『勝目清回顧録 : 鹿児島市秘話』南日本新聞社、1964年 。
公職 | ||
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先代 伊集院俊 |
鹿児島市長 7代:1925 - 1926 |
次代 白男川譲介 |