九国志』(きゅうこくし)は、北宋路振が著した十国歴史書。『十国志』(じっこくし)とも呼ばれる。元は51巻、現行本は12巻。

概要 編集

路振は真宗時代の知制誥契丹への使者などを務めた[1]。その彼が南唐呉越前蜀後蜀・東漢(北漢)・南漢の9か国の君臣の事績を集めて世家・列伝49巻を編纂したが、完成をみずに1014年に58歳で没した。その後、1061年になって孫の路綸が北楚(荊南)2巻分を補い、1064年に朝廷に進献した[2]。その後、によって史館に納められ、張唐英によって改めて北楚2巻などを増補したという[3]。刊本はなく、その後散逸していたが、邵晋涵永楽大典』などに所収されている分から136名[4]の伝を抜きだし、それを周夢棠が12巻(呉臣伝のみ3巻、他は1巻ずつ)としたのが現行本である。正史である『旧五代史』・『新五代史』に見えない記述も含んでおり、史料的価値が高い。

最終的に十国の伝記が納められたことから、『十国志』という名称も用いられた[3]が、路振の原題がそのまま用いられ、『九国志』と呼ばれるのが普通である。この「九国」の表現については、前蜀と後蜀を合わせたものとする説[2]もあるが、通説では北楚(荊南)を除いたとされている。これについて、山崎覚士は、「十国」が確認される最古の事例は1053年に完成した欧陽脩の『新五代史』(当時は『五代史記』)であり、欧陽脩が活躍した仁宗期以前には地方政権を総称して「十国」と呼称する概念がなかったとし、それ以前の荊南は自立した国家とはみなされずに中国(五代王朝)節度使として扱われていたため、路振は当時の認識に従って「九国」の事跡を記すのみであったとしている[5]

脚注 編集

  1. ^ 路振の詳しい伝記は『宋史』巻411(列伝第200 文苑3)にある。
  2. ^ a b 李燾続資治通鑑長編』巻202、治平元年6月条。
  3. ^ a b 王応麟玉海』巻48。
  4. ^ 呉40名・南唐1名・呉越5名・前蜀18名・後蜀27名・東漢5名・南漢8名・閩8名・楚19名・北楚1名。
  5. ^ 反対に欧陽脩とほぼ同時代の路綸・張唐英は、欧陽脩あるいは当時の歴史観の影響を受けて、北楚(荊南)を欠けていると捉えて増補したと考えられている。

参考文献 編集

  • 成田節男「九国志」(『東洋歴史大辞典』(平凡社、1937年/縮刷版:臨川書店、1986年)ISBN 978-4-653-01472-0
  • 『東洋史料集成』(平凡社、初版1956年/新装版1985年)1985年版P190(執筆担当:周藤吉之)
  • 山崎覚士「五代の〈中国〉と平王」(初出:宋代史研究会研究報告第九集『「宋代中国」の相対化』(汲古書院、2009年) ISBN 978-4-76292-866-6/所収:山崎『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年) ISBN 978-4-7842-1545-4