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五藤 為重(ごとう ためしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将土佐藩士。土佐山内家の家臣。

 
五藤為重
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年
死没 寛永6年(1629年
別名 通称:吉蔵・市左衛門・内蔵助
墓所 高知県安芸市安芸城横にある安芸川北横山墓地
主君 山内一豊忠義
土佐藩
氏族 五藤氏
父母 父:五藤浄基、母:堀江の娘[1]
兄弟 為浄為重
正友

生涯編集

永禄元年(1558年)、五藤浄基の子として誕生した。

兄・為浄と共に山内一豊に仕え、各地に転戦し一豊の出陣するほとんどの合戦に従った。天正11年(1583年)2月、兄が伊勢国亀山城[2]攻めの際に戦死し、家督は前野泰道の子・五藤浄清が継ぐと、自身は家老職となった。また、天正13年(1585年)の天正大地震の際には、近江国長浜城[3]にいた一豊の室・見性院を救出した。

天正18年(1590年)の小田原征伐伊豆国山中城[4]攻めに従軍し、首級2つを挙げる功をたて、一豊が遠江国掛川城[5]に移ると560石を与えられた。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績で、一豊が土佐国20万石に封じられると安芸城[6]を預かって1100石を与えられ、元和元年(1615年)に一国一城令により安芸城が廃城になっても代官として安芸に屋敷を置いた(安芸土居)。

寛永6年(1629年)、死去。

脚注編集

関連作品編集