仁政方
概要
編集仁政方の位置づけについては複数の説が存在しており、
- 引付方が下した訴訟判決に対する救済措置を行う越訴機関[1]
- 引付方の上位に位置し、押妨者の罪名決定などの保管機能を果たす機関[2]
- 恩賞地の知行回復のための訴訟機関[3]
- 執事奉書の発給を行う執事(後の管領)の政務機関[4]
などの推定がなされている。
暦応4年(興国2年/1341年)に既に訴訟機関として記録に登場し、同年10月3日には下文発給に関する訴訟を仁政方から引付方に移行する幕府法令(室町幕府追加法第7条)が出されている[5]。永和元年(天授元年/1373年)から3年にかけて、東寺が幕府に依頼した訴訟に関して引付方ではなく仁政方での裁決を求める遣り取りが記録されており、少なくても室町幕府創設期の40年間以上は存続したと考えられている[6]が、室町時代中期以後には既に廃止されたらしく、幕府職制に確認できない。
脚注
編集- ^ 佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」『日本中世論集』(岩波書店、1990年、原論文:1960年)
- ^ 山家浩樹「室町幕府訴訟機関の将軍親裁化」(『史学雑誌』94巻12号、1985年)・家永遵嗣「足利義詮における将軍親裁の基盤」『室町幕府将軍権力の研究』(東京大学日本史学研究室、1995年、原論文:1992年)
- ^ 小川信「室町幕府管領制成立の前提」「頼之の管領就任と職権活動」『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1980年、原論文:1978年(両論文とも))
- ^ 亀田俊和「南北朝期室町幕府仁政方の研究」『室町幕府管領施行システムの研究』(思文閣出版、2013年、原論文:2006年)
- ^ 亀田説では、足利尊氏(及びこれを補佐する高師直)と足利直義による室町幕府初期の二元支配における職務の線引きの問題に加え、引付方などの再興を通じて理非究明を重視する鎌倉幕府体制の再興を重視する直義と将軍尊氏の決定を迅速かつ強制的に実施させる(理非よりも実効性を重んじる)師直の政治路線対立が仁政方からの執事施行状(奉書の一種)発給で深刻化し、観応の擾乱の一因になったと解説する。また、同説によれば、仁政方の「仁政」とは将軍から恩賞地・寄進地を与えられながら他者からの押妨によって自力救済が困難な人々を救済するという将軍による仁政を実施するという意味を含んでいたとする。
- ^ 仁政方に関する記録の下限は至徳2年(元中2年/1385年)である(亀田、2013年、P257-258・278-279)。
参考文献
編集- 亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1675-8