仁連宿(にれいしゅく、にれいじゅく)は、江戸時代日光東街道(関宿通多功道)における下総国宿場。現在は茨城県古河市仁連に相当する。

日光東街道の起点となる水戸街道小金宿我孫子宿間の追分から数えて6番目の宿場である。

歴史

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宿駅の成立は、正保4年(1647年)、仁連村名主・善右衛門が街道を通る荷物の馬継を始め、慶安元年(1648年)に幕府がこれを追認したことによる[1]。宿駅の管理は主に幕府が担った。ただし、寛永16年(1639年)から享保10年(1725年)までは下野国壬生藩領であった[2][3]

町の概要

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享和 3年(1803年)、家数は122軒、人口は550人(男294人、女247人、出家4人、山伏2人、道心3人)、馬17疋である。(『鈴木篤三家文書』) 町は上町・下町・御辺・江口から構成された。[4] 本陣は一軒あったが脇本陣はない。本陣は鈴木家が務め、名主問屋も兼ねていた。[5]

宿場の位置は、かつての日光東街道に相当する県道17号沿い、仁連十字路から南に約 400mm 下った東漸寺妙厳寺の周辺であった。[3]

寺社

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助郷の村々

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各宿場町では、参勤交代や公用の人や物を運ぶために人馬を常備する必要があったが、これを助けるために近隣の村々が助郷に指定された。仁連宿の場合は、定まった助郷村がなく、必要になる度に近隣の村々に要請した。 壬生藩領の時期には、藩が領内の村から割り当てていた。山田村、柳橋村、新和田村などである。幕府領の時期には、道中奉行所に願い出る形式になった。例えば、嘉永 3年(1850年)、老中阿部伊勢守日光登山時には、東山田村・沓掛村・生子村・大生郷村など50ヵ村(本田25ヵ村、新田25ヵ村)が割り当てられている。(『鈴木篤三家文書』)[13] [14] 享保13年(1728年)の日光社参のときには、平塚村・菅谷村・恩名村・東山田村など22ヵ村だった。(『鈴木篤三家文書』)[15]

隣の宿場

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谷貝宿 - 仁連宿 - 諸川宿

脚注

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  1. ^ 『三和町史 通史編 近世』 201頁(諸川・仁連・谷貝町(宿)の成立)
  2. ^ 『三和町史 通史編 近世』 49-66頁(譜代諸藩の成立と異動)
  3. ^ a b c d e 『日光東街道 諸川・仁連・谷貝町~景観いま、むかし~』 36-45頁(日光東街道 仁連町・大和田村のいま、むかし)
  4. ^ 『三和町史 通史編 近世』 237-238頁(宿場の概要・仁連町)
  5. ^ 『三和町史 通史編 近世』 205-206(宿駅の機能と宿役人)
  6. ^ 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 306頁(東漸寺の歴史)
  7. ^ 『三和町史 通史編 近世』 170-177頁(町内の真言宗寺院)
  8. ^ 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 308-309頁(天台宗寺院と仏像)
  9. ^ 創建年代について、『日光東街道 諸川・仁連・谷貝町~景観いま、むかし~』 44頁 では、根拠となった史料の提示がないが、治安 2年(1022年)と紹介。
  10. ^ 『三和町史 通史編 近世』 177-179(天台宗の寺院)
  11. ^ 『三和町史 通史編 近世』 161-163(幕府の寺社支配)
  12. ^ 『三和町史 通史編 近世』 190-193頁(仁連天満宮と明室浄光碑)
  13. ^ 『三和町史 通史編 近世』 209頁(日光東街道と助郷・助郷)
  14. ^ 『三和町史 通史編 近世』 212-218頁(日光東街道と助郷・仁連町)
  15. ^ 『三和町史 通史編 近世』 253-255頁(享保の日光社参)

参考文献

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  • 古河市三和資料館 編 『日光東街道 諸川・仁連・谷貝町~景観いま、むかし~』 古河市、平成24年(2012年)
  • 三和町史編さん委員会 編 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 三和町、平成8年(1996年)
  • 三和町史編さん委員会 編 『三和町史 通史編 近世』 三和町、平成12年(2000年)