伊藤悌三
1907-1998, 洋画家
略歴
編集千住吾妻汽船会社(隅田川の一銭蒸気船)を経営の父幸太郎と、写真家江崎礼二の長女八重の三男として浅草山ノ宿町53番地で生まれる。独協中学校の時に画家を志し、1927年(昭和2年)岡田三郎助に師事。1929年(昭和4年)東京美術学校西洋画科に入学。
在学時の1933年(昭和8年)の第14回帝展に初入選し、以後毎年入選。 1941年(昭和16年)の第4回新文展には「少憩」を出品し、この年から制定された岡田賞を受賞した[1]。翌年無鑑査となる。1941年(昭和16年)、紀元二千六百年にあたり興亜院より中国各地を取材。翌年陸軍報道部より南方各地に派遣作品を制作。
戦後は、日展・光風会で活動、浅井閑右衛門、南政善らと新樹会を創立するも、1952年(昭和27年)以後団体を退き、無所属作家として個展で発表する。師である岡田三郎助の影響を受け人物画家と自負、裸婦の他、1972年(昭和47年)以後は毎年渡欧し、スペインの女性を多く描いた。
1998年(平成10年)9月没 90歳
著書
編集- 1967年(昭和42年) 人物画を始める人へ〔アトリエ出版社〕
- 1983年(昭和58年) 我が心の隅田川〔季刊江戸っ子連載〕
- 1987年(昭和64年) 伊藤悌三作品集〔一枚の絵(株)〕
- 1998年(平成10年) 我が心の隅田川《17回連載を一冊にまとめる》〔私家本》
挿絵
編集脚注
編集- ^ 岡田賞に伊藤悌三ら 一・二部特選発表『大阪毎日新聞』(昭和16年10月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年