岡田三郎助
日本の画家
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、1869年1月22日(明治2年1月12日) - 1939年(昭和14年)9月23日[1])は、佐賀県に生まれ、明治~昭和にかけて活躍した洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残している。東京美術学校(現・東京藝術大学)教授。第1回文化勲章を受章。
岡田三郎助 (おかだ さぶろうすけ) | |
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![]() 明治39年 | |
生誕 | 1869年1月12日 |
死没 | 1939年9月23日 (70歳) |
墓地 | 青山霊園 |
国籍 |
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著名な実績 | 洋画 |
代表作 | 「矢調べ」(1893)、「婦人像(某婦人の肖像)」(1907)、「支那絹の前」(1920)、「あやめの衣」(1927)、「裸婦」(1935年) |
略歴編集
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年2月) |
- 1869年 肥前佐賀藩の名家であった石尾家に生まれる。幼名は芳三郎。
- 1887年 岡田家の養子になり洋画家・曽山幸彦の画塾に入門、曽山の逝去後は堀江正章に学んだ。
- 1892年 洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受ける。
- 1893年 大幸館規定の科目を卒業。卒業制作は『矢調べ』。
- 1894年 久米桂一郎の紹介で黒田清輝を知る。
- 1896年 久米桂一郎、黒田清輝とともに白馬会の創立に参画する。
- 1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランに師事する。
- 1902年 帰国し、東京美術学校の教授に就任する。
- 1906年 小山内八千代と結婚。
- 1907年 東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受ける。文展の審査員に選ばれる。
- 1912年 藤島武二と本郷洋画研究所を設立。
- 1913年 久米桂一郎等と共に佐賀美術協会を設立。
- 1919年 高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成に加わる。帝国芸術院会員となる。
- 1926年 妻・八千代と別居。
- 1930年 文部省より欧州出張を命じられ渡欧。11月帰国。
- 1933年 桃の花の咲きみだれる北信濃の地を訪れ、その地を「丹霞郷」と名づける。
- 1934年 12月3日 帝室技芸員[2]
- 1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術院会員となる。
- 1939年 9月23日自宅で死去。
- 1940年 岡田三郎助遺作展覧会を東京府美術館、大阪市天王寺美術館で開催。
- 2016年 岡田三郎助、妻八千代、辻永の姿が生前16ミリフィルムで撮影されたものをもとにドキュメンタリー映画「あるアトリエの100年」が山崎欽毅監督らによって製作された[3]。
人物編集
主な作品編集
『あやめの衣』1927年(ポーラ美術館)
『水辺の裸婦』1935年(ひろしま美術館)
- 『清楚(少女)』1907年(佐賀県立美術館蔵)
- 『萩』1908年(兵庫県立美術館蔵)
- 『水浴の前』1916年(石橋財団石橋美術館蔵)
- 『花野』1917年(佐賀県立美術館蔵)
- 『支那絹の前』1920年(高島屋史料館蔵) 妻・八千代がモデル。
- 『富士山』1920年(佐賀県立美術館蔵)
- 『少女読書』1924年(佐賀県立美術館蔵)
- 『あやめの衣』1927年(ポーラ美術館蔵)
- 切手に使われている。以下に詳しい。
- 「岡田三郎助「あやめの衣」 」『美と歴史』。
- 「岡田三郎助-絵画作品と所蔵美術館」『FishEyeArt』。
- 1945年(昭和20年)以降行方が分からず幻の名画と呼ばれていた。
脚注編集
- ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去」『官報』第3820号、昭和14年9月27日、p.972
- ^ 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
- ^ 「あるアトリエの100年」公式サイト
- ^ a b c 支那絹の前にたつ岡田八千代 : 近代日本のある男性画家と女性小説家の夫婦別居をめぐって : 作品をとおして 大井健地、藝術研究号1号、広島芸術学研究会、1988-07-23