佐竹義邦
佐竹 義邦(さたけ よしくに)は、佐竹氏一門の佐竹北家第12代当主。佐竹北家角館第5代所預。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保3年(1718年) |
死没 | 天明7年8月10日(1787年9月21日) |
別名 | 又四郎、但馬、図書、河内、主計(通称)、歴翁(号)、百童(俳号) |
主君 | 佐竹義真→義明→義敦 |
藩 | 出羽国久保田藩角館所預 |
氏族 | 佐竹東家→佐竹北家 |
父母 |
父:佐竹義本、母:佐竹義安の娘 養父:佐竹義拠 |
兄弟 | 義道、義智、義邦 |
妻 | 正室:佐竹義拠の娘 |
子 | 義躬 |
生涯
編集享保3年(1718年)、佐竹義本の子として生まれる。従兄弟の北家佐竹義拠の婿養子に迎えられる。寛延3年(1750年)、養父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。宝暦5年(1755年)、藩主義明に従い江戸に出府する。宝暦7年(1757年)、藩内に銀札推進派と反対派の家中騒動が発生する。藩主の叔父である義邦と義智は、反対派の家老石塚義陳、岡本元貴(石塚義陳の弟。岡本家の養子)、平元正直に事態の収拾を依頼され城に出府するも、銀札推進派は藩主義明に、義邦らに陰謀があると讒言したため、5月に謹慎を命じられた。翌6月に讒言であることが発覚して謹慎を解かれ、推進派は騒動を企んだとして死罪等の厳罰に処された。反対派は褒賞を受け、義邦も500石の加増を受けた。宝暦12年(1762年)2月、藩主義敦の元服の際に加冠役を務めた。
明和6年(1769年)、隠居して家督を嫡男の義躬に譲る。天明7年(1787年)死去、享年70。
谷素外に師事した談林派の俳人としても知られ、雅号を百童、歴翁、午時庵、遷喬、里麗と名乗った。また書画の腕にも秀でており、家中でも文芸が盛んとなった。
参考文献
編集- 林正崇『図説・角館城下町の歴史』無明舎出版、1982年
- 山方泰治『秋田人物伝』1923年
- 土居輝雄『佐竹史探訪』