佐藤恒夫
スピードスケート選手
佐藤 恒夫(さとう つねお、1925年12月18日 - 1992年9月16日)は宮城県出身(宮城県桃生郡廣渕村、現在の石巻市広渕)の元スピードスケート選手である。
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
誕生日 | 1925年12月18日[1][2] | |||
出身地 | 宮城県[1] | |||
死去日 | 1992年9月16日(66歳没) | |||
身長 | 176cm[1][2] | |||
体重 | 74kg[1][2] | |||
最終学歴 | 日本大学専門部工科(現・工学部) | |||
成績 |
略歴
編集- 苫小牧工業学校(現・北海道苫小牧工業高等学校)を経て日本大学専門部工科(現・工学部)を1951年に卒業。
- 1949年度の第18回全日本スピードスケート選手権大会で1500mと5000mで1位となり、総合優勝を果たす。
- 全日本選手権で1500mに1947、1949年度(1948年度は中止)2連覇。日本学生選手権で千五百㍍に1946、1947、1949年度の3回優勝。
- 苫小牧製紙(現・王子製紙)に入社。
- 1952年のオスロオリンピックに出場し500mで18位、1500mで11位だった[1][2]。
- 1952年ストックホルムの国際大会で千五百㍍に優勝し、世界選手権大会にも出場した。
- 引退後は王子製紙スピードスケート部監督、日本大学スケート部総監督に就任し、1968年のグルノーブル冬季オリンピックではスピードスケートのコーチを務めた。
- 1972年札幌冬季オリンピックにはスピードスケート国際スターター、国際計測員として参加。
- 1992年9月16日午前4時30分、東京警察病院にて肺不全のため66歳で死去。
- 公益財団法人東京都アイスホッケー連盟レフェリー委員長、佐藤雅広は長男。
- アイスホッケー日本代表で全米体育協会1部(NCAA Div.1)ニューハンプシャー州立大学を卒業(2021年)し、同じく1部のベントレー大学大学院に移籍した佐藤航平(1996年生まれ)は孫。(2022-2023シーズンはFinland2部MestisのJoKp→KeupaHTでプレー)
脚注
編集外部リンク
編集- 佐藤恒夫 - Olympedia
- 冬季オリンピックメモリーズ