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何佟之(か とうし、449年 - 503年)は、南朝斉からにかけての官僚学者は士威。本貫廬江郡灊県

経歴編集

斉の奉朝請の何歆の子として生まれた。若くして三礼を好み、師につかずに独学し、礼論200篇を読破して、ほぼ暗誦することができた。揚州従事を初任とし、そのまま総明館学士となった。司徒参軍事・車騎参軍事・尚書祠部郎を歴任した。

斉の建武年間、鎮北記室参軍となり、皇太子蕭宝巻の講義に侍し、丹陽邑中正を兼ねた。ときに劉瓛呉苞といった建康の碩儒はみな死去しており、ひとり佟之のみが健在であった。当時の朝廷の吉凶や礼の決まりはみな佟之の意見が採用された。佟之は歩兵校尉・国子博士を歴任し、ほどなく驃騎諮議参軍となり、司馬に転じた。500年永元2年)、裴叔業崔慧景の反乱で建康は騒然としたが、佟之は諸生を集めていつもどおりに講義や議論をおこなっていた。501年中興元年)、驍騎将軍の号を受けた。

502年天監元年)、梁の武帝が即位すると、佟之は尚書左丞となった。梁朝の草創にあたって、礼の制定の議論に佟之が寄与したところは多大であった。503年(天監2年)、在官のまま死去した。享年は55。武帝はかれを哀惜して、尚書左丞には贈官をおこなわない通例を破り、黄門侍郎の位を追贈した。かれの著した文章や礼の解釈は100篇ほどあった。

子女編集

  • 何朝隠
  • 何朝晦

伝記資料編集