依田養七
依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月28日[1][2] - 1976年〈昭和51年〉10月22日[1][2])は、岩手県の政治家。初代江刺市(現在の奥州市)長(1期)を歴任。
来歴 編集
江刺郡岩谷堂町(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の奥州市)の味噌醤油醸造業の家に生まれる[3]。1921年〈大正10年〉岩谷堂町会議員となり、3期務めたほか、学務委員となった[1]。1934年〈昭和9年〉岩谷堂町長に当選する[4]。1938年〈昭和13年〉まで務めた後、1945年〈昭和20年〉に再任[4]。翌年まで務めた。
戦後の1954年〈昭和29年〉に復帰[4]。当時、岩手県が進めていた町村合併計画を実現するにあたり、江刺郡内では各町村の利害が対立し、その意向が極度にそろわない状態だった[2]。このような中での町長就任となり、合併実現に向けての各町村の調整に尽力し、1955年〈昭和30年〉に江刺町としての合併にこぎつけ、江刺町長に就任した[1][3]。
1958年〈昭和33年〉江刺町は市制施行により、江刺市となり、初代市長となった[1][3]。市長は翌年まで務め、退任後は市政顧問となった[1]。
1967年〈昭和42年〉勲五等瑞宝章を受章[1]。1976年〈昭和51年〉に死去。従六位が贈られ、市葬が行われた[1]。