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内藤 正勝(ないとう まさかつ)は、内藤家安房勝山藩の第2代藩主。高遠藩内藤家4代(5代とする説あり)。

 
内藤正勝
時代 江戸時代初期
生誕 慶長13年(1608年
死没 寛永6年8月3日1629年9月19日
別名 百介(通称
墓所 東京都新宿区新宿の太宗寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
安房勝山藩
氏族 内藤氏
父母 父:内藤清成
兄弟 清次清政正勝、娘(木造某室)、娘(伊沢政信正室)、娘(日向政成室)、娘(小浜光隆正室)、娘(松平親良室)
正室板倉重宗の娘
重頼、娘(水野守政正室)

生涯編集

慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の三男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男清次が、清次の死後は次男清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。

元和8年(1622年)、正勝は上総国内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年(1623年)に兄の清政が21歳で死去し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は改易された。3年後の寛永3年(1626年)、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。寛永6年(1629年)8月3日に22歳で死去した。葬儀は江戸の太宗寺で営まれ、後にこの寺が内藤家の菩提寺となった。

正勝の死後、長男・重頼が3歳と幼少のため、母方の叔父板倉重宗より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は減封・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの旗本となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、大坂城代京都所司代を歴任する。正勝の孫清枚の時に信濃国高遠に転封され、高遠藩内藤家は明治維新まで続いた。

参考文献編集

  • 新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年