則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年明治24年)11月20日[1] - 1944年昭和19年)7月16日[2])は、日本衆議院議員立憲民政党)、弁護士

則元卯太郎

経歴

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長崎県長崎市出身。父は衆議院議員則元由庸長崎県立長崎中学校第五高等学校を経て、1917年大正6年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した[1]。同年に長崎市で弁護士を開業した。1930年(昭和5年)、長崎日日新聞社副社長に就任した[1]

1921年(大正10年)より長崎市会議員に6度当選し、副議長にも選出された。また1923年(大正12年)より長崎県会議員に3度当選し、副議長に選出された。

1938年(昭和13年)、衆議院に補欠当選を果たし、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙でも再選された。

その他に朝鮮新聞社取締役[3]、長崎弁護士会会長[4]などを務めた。

脚注

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  1. ^ a b c 『帝国大学出身名鑑』ノ18
  2. ^ 『官報』第5254号、昭和19年7月20日
  3. ^ 『人事興信録』
  4. ^ 『衆議院要覧』

参考文献

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  • 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。 
  • 校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年。