劉 和(りゅう か)は、五胡十六国時代前趙の第2代皇帝は玄泰。後世の史家によって廃帝和とも帝和と称される。新興郡(現在の山西省忻州市)の出身。光文帝劉淵の長男で、生母は匈奴の名門出身の呼延皇后(元勲の呼延翼の娘)。同母弟に劉裕劉隆がいる。

廃帝 劉和
前趙
第2代皇帝
王朝 前趙
在位期間 310年
姓・諱 劉和
玄泰
生年 不詳
没年 河瑞2年(310年)7月
光文帝
呼延皇后

生涯 編集

308年11月、漢の皇帝である父の劉淵より大将軍に任じられた。12月、大司馬に任じられ、梁王に封じられた。310年1月、皇太子に立てられた。同年7月、劉淵が崩御すると、その後を継いで皇帝に即位した。

即位した劉和は、現状の待遇に不満を抱いていた母方の叔父の呼延攸、皇族の一人の西昌王劉鋭、大司馬・楚王劉聡と対立していた侍中劉乗らに唆され、当時兵権を握っていたいずれも弟の楚王劉聡・北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕の4人を誅殺して、権力を掌握する計画を図った。2日後の夜、劉和はまず安昌王劉盛・安邑王劉欽馬景らを召して計画に参画するよう告げたが、劉盛はこれを断り劉和を諫めた。しかしこれを聞いた劉鋭と呼延攸は怒り、側近に命じて劉盛を斬り殺させてしまった。馬景・劉欽はこれを見てやむを得ず劉和に従い、東堂において盟約を交わし、四王討伐の準備を推し進めた。

翌日、劉和は計画を実行に移すと、劉鋭・馬景には単于台にいる劉聡を、呼延攸・永安王劉安国には司徒府にいる劉裕を、劉乗・劉欽には劉隆を、尚書田密・武衛将軍劉璿には劉乂を、それぞれ攻撃させた。だが田密・劉璿はこの計画に参与する事を望んでいなかったので、劉乂の側に寝返ると関所の守備兵を殺して劉聡の下に奔り、計画を全て漏らしてしまった。そのため、劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は劉聡の陣に備えがあるのを見ると、軍を返して呼延攸・劉乗らと合流し、共に劉隆・劉裕を攻めた。この時、呼延攸・劉乗は田密らの離反を聞き、劉安国・劉欽もまた裏切るのではないかと心中恐れるようになり、彼らを斬り殺してしまった。

同日のうちに呼延攸らは劉裕を、翌日には劉隆を殺害する事に成功した。だがさらにその翌日、劉聡の軍が攻勢に転じて西明門を攻撃すると、これを陥落させた。驚いた劉鋭らは南宮へと逃げ込んだが、劉聡の前鋒部隊がこれを追撃した。翌日、光極西室にいた劉和は劉聡軍に捕らえられ、妻子ともどもそのまま処刑された。劉乗・劉鋭・呼延攸らもまた捕らえられ、市街において晒し首となった。劉和の在位期間はわずか6日間であった[1]

人物 編集

身の丈は8もあり、その姿は雄々しく剛毅で、美しい容貌をしていた。若い頃より学業に励み、『毛詩』・『春秋左氏伝』・『鄭氏易』を熟読した[2]。だが、皇太子になって以降は次第に猜疑心が強くなり、部下へ恩を施さなくなったという。

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 『資治通鑑』によると、劉淵の崩御が秋7月の己卯の日で、劉和の死が同月の乙酉の日とする。
  2. ^ 晋書載記第1劉淵伝、第2劉聡伝より。