劉敏 (蜀漢)
生涯 編集
祖先は彭城郡の人だったが、曾祖父の劉綽が零陵太守に任じられ、荊州へ移った。祖父の劉優は孝廉に挙げられ、後漢の献帝の時代に侍御史となり、さらに御史大夫や尚書右僕射へ進んだ。また一族は同じ零陵郡の蔣氏と婚姻を結び、姻戚関係となった。
劉敏は草書を善くし[1]、20歳の頃には外弟の蔣琬と共に名を知られ、孝廉に推挙された。蜀漢の劉禅の時代、侍御史となって秩序の維持に当たり、名実を備え、朝廷内で称賛を集めた。
建興9年(231年)、諸葛亮が上奏した李厳の弾劾状において、行右護軍・偏将軍として名を連ねる[2]。その後は左護軍・揚威将軍に昇進し、王平と共に漢中に駐屯した。
延熙7年(244年)、魏の曹爽が計10万余の歩兵・騎兵を率いて漢川に侵攻し、先鋒隊は駱谷まで押し寄せてきた。漢中の守備兵は3万に満たず、「一時後退して漢城・楽城の守備に徹し、援軍の到着を待つべき」という意見も挙がる。しかし王平と劉敏はあくまで漢中を固守すべきと主張。劉敏は興勢山に立て籠もり、100余里に渡って旗や幟を押し立てて時を稼ぎ、その内に費禕の援軍が到着すると、曹爽軍は撤退していった(興勢の役)[3]。その戦功により雲亭侯に封じられた。
出典 編集
- 盧弼『三国志集解』巻44 蜀書 蔣琬伝附 劉敏伝