諸葛亮

中国の後漢~三国時代の蜀漢の軍師、丞相

諸葛 亮(しょかつ りょう、拼音: Zhūgě Liàng ジューガー・リャン181年 - 234年8月末)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢政治家武将軍師)。亮は孔明こうめい

諸葛亮
清代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵
代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵
蜀漢
丞相録尚書事益州
出生 光和4年(181年
琅邪郡陽都県[1]
死去 建興12年(234年8月
五丈原
拼音 Zhūgě Liàng
孔明
諡号 忠武侯
別名 伏龍、臥龍(渾名)
主君 劉備劉禅
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諸葛 亮
各種表記
繁体字 諸葛 亮
簡体字 诸葛 亮
拼音 Zhūgĕ Liàng
ラテン字 Chuko Liang
和名表記: しょかつ りょう
発音転記: ジューガー・リャン
英語名 Zhuge Liang
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司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡諸葛珪の子。忠武侯ちゅうぶこう。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅丞相としてよく補佐した。伏龍臥龍とも呼ばれる。今も成都南陽には諸葛亮を祀る武侯祠がある。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄でに仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、の武将として仕えた諸葛誕などがいる。

生涯 編集

書生時代 編集

徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が出生地[1]本貫も同地である[2]。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。この時期には自らを管仲楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平太尉崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。この時期の他の学友に石韜孟建がいる。また、この時期に地元の名士の黄承彦を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。

妻の父の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は房陵太守蒯祺の妻[3]、次姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。

三顧の礼 編集

 
の時代に描かれた三顧の礼の様子

華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した[注釈 1]。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬~208年春)、やっと迎えることができた[注釈 2]。これが「三顧の礼」である。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、「曹操・孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだ」と勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認め、諸葛亮を左将軍掾(主任)に起用した、また諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」という。諸葛亮は劉備軍加入後、真っ先に曹操の侵略を抑える事を最優先とし、劉備軍は孔明が来てからは厳しさを持つようになった。孔明加入前の劉備軍は統制が弱かったが、孔明が陣頭指揮に立ってからは規律を第一とし、真っ先に曹操の攻撃を抑えて堅く守り切り、その間に颯爽と勢力を固めていく事になる。

赤壁の戦い 編集

建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できると勧めたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。何故曹操の下につく事などできましょうか」[注釈 3]と答えた。その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

入蜀 編集

戦後、劉備たちは荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将・零陵桂陽長沙三郡部郡従事(兵権を有し、3郡の太守を監察する職掌)に任命され、3郡の統治に当たりここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米道張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統、黄忠、法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛趙雲劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定。諸葛亮らは戦うところ全てで勝利した(『三国志』劉封伝)。郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。

建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また法正、劉巴李厳伊籍とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

劉備の死 編集

その後、劉備は曹操に勝利して漢中を領有したが、荊州が孫権軍(呂蒙陸遜)に奪われ、さらに留守をしていた関羽が捕らえられて斬殺された(樊城の戦い)。

劉備の養子である劉封が孟達申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。諸葛亮は「劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろう」という理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去した。その年、曹操の子 曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。一方、劉備は後漢の献帝が殺害されたとの報に触れ、翌年成都で漢を継ぐことを宣言し、皇帝に即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。

章武元年(221年)に劉備は関羽の弔い合戦を兼ねた荊州奪還を目的にへ進軍を計画するが、この準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。進軍は最初から順調で、その勢いに孫権は途中で和睦を行おうとしたが、劉備は決して聞き入れようとはせず、進軍を続けていった。劉備は前線を次々と破る快進撃を続けたが、最後は陸遜の作戦により、劉備は荊州のみならず軍の大半と数多の優秀な人材を失う大敗を喫した(夷陵の戦い)。諸葛亮は後に「法孝直が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた[注釈 4]

劉備は敗戦の失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に崩御した。崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と李厳と共に事後を託した。これに対し、諸葛亮は、涙を流して股肱の臣下としての忠誠を誓った。

また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい「馬謖は言葉だけで実力が伴わないから重要な仕事を任せてはいけない」と言い残した(「馬謖伝」)。

益州南部の平定 編集

劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担った。諸葛亮は農業生産を積極的に開発し、農家の負担を可能な限り減らすようにして秦の時代に築かれた水利施設を再構築した[要出典]

諸葛亮は「孫権が劉備の死を聞けば、おそらく異心を抱くだろう」と深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶って蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆王朗陳羣、許芝のほか同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に『正議』を発表して彼らを批判した。

劉備の没後、益州南部で雍闓高定らが反乱を起こしていたが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡をことごとく平定した(南征)。この地方の異民族に漢代を通じて始めて税を課す事に成功して財物を軍事に充て、蜀の財政は大いに潤った。『漢晋春秋』『華陽国志』によると、この時七縦七擒の故事があったといわれる(詳しくは「孟獲」の項を参照)。

12月に諸葛亮が成都に帰還すると、西南夷は再び反乱を起こし、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、庲降都督李恢が兵を率いて反乱を鎮圧した。

北伐 編集

 
の時代、想像で描かれた諸葛亮と司馬懿

建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。同年に待望の実子、諸葛瞻を儲けた。

北伐に幕僚として従軍し、諸葛亮から高く評価された楊顒は諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、前漢の宰相である丙吉陳平の故事を引いて諌めた。諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。後に楊顒は東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の張裔・蔣琬に手紙を送った際に、同時期に夭折した西曹令史の頼広[注釈 5]とともに、その死は朝廷の重大な損失であると書き記している。

「籌筆駅」という地名がある。四川省広元市の北方に位置する(現在の地名は籌筆郷)。諸葛亮が北伐の途上、この地に駐屯し軍事を「はかり(籌)しるした(筆)」場所としてその名をのこしている。付近には軍旗を立てたところ、兵の訓練を実施した山などの伝承もある。漢詩の題材として取り上げられることもあり、晩唐の李商隠に「籌筆駅」と題する七言律詩がある[4]

魏を攻める前年、諸葛亮は、以前に魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[注釈 6]

建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[注釈 7]。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安天水安定の3郡(いずれも現在の甘粛省)は蜀に寝返り関中、魏の朝廷は恐慌した。さらに隴西まで進出したが隴西太守の游楚は抵抗するとここではすぐに軍を引いた。これに対して魏の明帝曹叡張郃を派遣したが、諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命していた[注釈 8]。しかし馬謖は諸葛亮の指示に背き行動は妥当性を欠いていた。配下の王平の諫言も無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。趙雲も曹真に敗北し、曹真と張郃は3郡奪回へ進軍した。進路の確保に失敗した蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。

撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の故事)、趙雲を降格し、また馬謖の逃亡を黙認した向朗を免職にした。自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。李邈は諸葛亮を諫めて「春秋時代に秦は敗軍の将・孟明視中国語版を赦したおかげで西戎を制圧でき、楚は子玉を誅殺したため二代にわたって振るわなかったのです」と述べて、諸葛亮の機嫌を損ね、蜀に帰還した[5]

同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行する。その際『後出師表』を上奏したとされるが[6]、これについては偽作説が有力である。2度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていた事や、守将の郝昭の奮戦により、20日余りの包囲した後、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を破り討ち取っている(陳倉の戦い)。

建興7年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式武都陰平の両郡を攻撃させた。雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した(陳倉の戦い#第三次北伐)。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。

建興8年(230年、魏の曹真らが漢中に攻め寄せるも、大雨によって魏軍の進軍が滞った事もありこれを撃退する(子午の役)と、これに乗じた諸葛亮は西に軍を進め魏延、呉懿を羌中へ向かわせ、陽谿で魏の費耀・郭淮を大いに打ち破った。

建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行った。魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣し、諸葛亮は自ら郭淮らと対峙して撃退し、近辺の麦を刈り取った。張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が指揮を執る魏軍は祁山を解放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的には勝利したものの、長雨が続き悪天候の食糧輸送を嫌った李厳が撤退を進言した。当時隴右地方は不作で、初期に麦を刈り取ったことも相まって、魏軍でも飢えが始まっていた為、諸葛亮は引くことを下策とした(華陽国志)が、魏側が郭淮の説得により異民族から食料を供出させ、飢えを凌いだため、蜀側の食糧が不利になり、軍を引かざるを得なかった。撤退時に、司馬懿に追撃を命じられた張郃を伏兵を用いて射殺している(祁山の戦い[注釈 9]。食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁を図ろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾を糺したため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで自分と共に事後を託された彼を庶民にいきなり落として流罪にした。李平は諸葛亮に次ぐ地位にあったため、政治・軍事の重圧は諸葛亮に集中することになった。

同年、益州南部の南中を治める庲降都督の李恢が死去し、後任として張翼が赴任するが、法を厳しく執行しすぎたため西南夷の反発を招いた。建興11年(233年)には南夷の豪帥であった劉冑が反乱を起こし、朝廷は張翼を召還して馬忠を派遣し反乱を平定させている。

建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い[注釈 10]、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。諸葛亮は渭水の北を攻撃したり、東に向かい武功水を渡河して進撃するなど、北に東に魏軍を揺さぶったが、郭淮に行動を読まれていたり、魏軍を撃退しても長雨に祟られて渡河が遅れる等、天運に見放されたこともあり上手くはいかなかった。同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、8月末[注釈 11]、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。(満53)

死後 編集

諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、司馬懿は追撃を仕掛けたが蜀軍が反攻の構えを見せるとすぐに撤退した。この事から当地の民衆は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言い合った。魏延は楊儀の指揮下に入る事を拒否して争いを起こしたが、結局は楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し「彼こそ天下の奇才だ」と驚嘆した。

諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。

諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。

華陽国志』によると、劉禅が白い喪服を身に付けて三日間哀悼の意を表したとき、李邈は上表して次のように述べた、 「呂禄前漢呂后の一族。呂后の死後に殺された)・霍禹昌邑王を廃し宣帝を迎えた霍光の子。霍光の死後に殺された)は、必ずしも反逆の志を抱いてはおらず、孝宣帝も臣下を殺す君主となることを好まなかったにもかかわらず、ただ臣下は危機が身に迫ることを恐れ、君主は臣下の威勢を畏怖したために、邪悪が発生したにすぎません。 諸葛亮は強力な軍兵を擁し、狼のごとく後を振り返り、虎のごとく機会を狙っておりました。所管の長は勢力が強大な場合は、辺地の任につけてはならないもので、臣(わたくし)はいつもこれを危ぶんでおりました。 いま諸葛亮が死去しましたのは、つまりご一族には安泰を得られ、西戎は安息を得たということでありまして、すべての人にとって喜ぶべき事態であります。」 劉禅は立腹し、獄に下して李邈を処刑した[5]

諸葛亮の後は、蔣琬を中心に楊儀(後に失脚)・費禕董允鄧芝呉懿姜維王平張翼といった人々が成都での政務と漢中・東部の防衛を引き継ぎ、諸葛亮の死に動揺する蜀漢の安定に心を砕いた。

諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、蜀漢の朝廷はの制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀る事があとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく沔陽に廟が建立された(習鑿歯『襄陽記』)。

魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。

評価 編集

陳寿の評 編集

『三国志』の撰者である蜀漢西晋陳寿は「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」(原文を部分的に抜き出して要約)と評した。一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからなのかもしれない」とも述べている。『三国志』成立直後より諸葛亮に対して疑義を述べたこの文章をことさらに強調して、陳寿が私怨から諸葛亮を貶めているのだなどという言説が多数出た(詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)[8]

しかし、『三国志』に収録されている『諸葛氏集目録』で陳寿は「諸葛亮の才能は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなかった。諸葛亮の才は興業を成した管仲・蕭何に匹敵した。では敵のほうが兵数が多く、(管蕭の同僚である)王子城父韓信のような名将もいなかった為、北伐は成功しなかったであろうか?(そうではない)。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命であり、人智が及ぶところではなかったのだ」と評している[9]。また『諸葛氏集目録』には「諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物でありまして、容貌はなはだすぐれ、当時の人々は、彼を高く評価しておりました」とも記されている[10]

裴松之の評 編集

『三国志』の注釈者である東晋末・初の裴松之は「諸葛亮が中原を闊歩し、その龍の輝きの如き才能を発揮したならば、いったい才能ある士人たちがおさえつけられる人物であろうか。魏氏に仕官し、その能力を発揮したならば、陳羣司馬懿が対抗できる相手ではない。ましてや他の者たちに至っては問題にならない。仮にも功業が成就されず、理想を遂行できないのを気にせず、大きな志を持ちながら、あくまで魏に臣服しなかったのは、漢朝がまさに滅びんとするにあたって、皇族の英傑を補佐し、王朝を建て直して復興する事を自己の責務としたためである」と述べている[11]

『蜀記』で・西晋の郭沖が諸葛亮を賛美して語ったという「諸葛亮は刑罰に峻厳で、民衆をむごく扱ったので皆怨みと嘆きを抱き、法正に諌められた」という記述に対して「当時、諸葛亮は益州の牧を兼任しておらず、恩賞や刑罰は彼から出てはいない」と批判しつつ、「諸葛亮のつつましやかで忠義な生き方からみて、そんなことはほとんどありえないことである」という人格面での評も見られる[12]

後世の諸書に見える同時代の評価 編集

魏の徴士傅幹は「諸葛亮は政治に熟達し、状況の変化をよく読み取る男で、正道によりながら権謀がある」と評価している[13]

曹操が漢中を攻略した際、劉曄は蜀を続けて攻めるよう進言したが、この際に諸葛亮の政治がよいため放置しておくのは危険であるとしている[14]

魏の文帝から諮問を受けた賈詡は、諸葛亮がよく国を治めていると評価している[14]

呉の政治家、歴史家であった張儼は古代の名宰相である子産晏嬰管仲と並ぶか、それを上回る人物であると評価している[15]

また張儼は著書の『黙記』述佐篇で批評として「諸葛孔明は、一州を支配し、大国と比較すれば、その戦士、人民は、たぶん九分の一程度であっただろう。司馬仲達は十倍の地を支配し、自国の保全につとめただけであった。諸葛孔明を思うままに行き来させていたのだから、もしも孔明が死なずその意思を全うすれば勝負の帰趨も結論を見ていたであろう。昔子産が鄭の国を治めたころ諸侯は思い切って戦いを挑もうとしなかった。蜀の丞相もこれに近いといえよう。司馬懿と比較すればまさっていよう」と述べている[16]

一方、彼の著作内で呉のある人が「空しく軍隊を疲労させ、毎年出征しながらわずかばかりの土地を攻略することもできず、国内は荒廃にさらされた」と論じている[17]。張儼はこれに対し「司馬仲達の才能は諸葛孔明に劣り、劉玄徳でさえ対抗しえたのに諸葛孔明がどうして軍を出して敵の滅亡を策してはいけないのか。私が観察するに彼の蜀国統治の根幹は当時すでにきちんと整備されており、いにしえの管仲、晏嬰といえどもどうして彼以上でありえようか」と反論している。また同時期に袁準は著作『袁子』の中で「諸葛亮の統治により田畑は開墾され、米倉は満ちあふれ、道には酔っ払うものもいなかった」と論じている[16]

諸葛亮の死後、蜀の相となった蔣琬楊敏に「前任者(諸葛亮)に及ばない」とそしられた際に「事実私は前任者に及ばない」と語った。

蔣琬を継いだ費禕姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語っている。

代に成立した『晋書』「宣帝紀」には、司馬懿が諸葛亮との交戦中、弟へあてた手紙に「志は遠大であるが、機を見るに敏でない」とした[18]一方で、戦後に諸葛亮の築いた軍営の跡を見て「天下の奇才」と評価している[19][20]

西晋における評価 編集

 
武侯祠の諸葛亮像

代に成立した『晋書』においては諸葛亮が政治・忠誠などで高い評価を受けていた記述が見られる[21]

蜀漢の滅亡後には、司馬昭が諸葛亮の軍法や用兵を陳勰に学ばせている[22]

傅玄が司馬懿を讃えた楽『宣受命』では、公孫氏討伐とともに諸葛亮に対する勝利を司馬懿の功績であるとしている[22]

当時、諸葛亮と楽毅を比較する論がしばしばあったが、張輔は『名士優劣論』の中で楽毅などとは比べ物にならず、呂尚(太公望)に匹敵する人物であると絶賛している[23]

『三国志』裴松之注『漢晋春秋』(東晋成立)では、武帝司馬炎が「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と語っている。司馬炎にとって諸葛亮は祖父・司馬懿の好敵手として顕彰の対象であり、また諸葛亮が劉備の遺命を受けて最後まで劉禅を支えた姿は自らの皇太子である司馬衷(後の恵帝)の能力に不安を抱えていた司馬炎にとっての理想の臣下像であったと言える[24]

五胡十六国時代以後における評価 編集

五胡十六国時代から南北朝時代になると、諸葛亮を名臣・名将であると評価する動きが高まった[25]

東晋においては蜀と東晋の状況を重ね合わせ、蜀漢が正統な王朝であるという動きが強まり、諸葛亮が政治や軍事面だけでもなく、理想的な君臣関係を築いた者としても賞揚された[26]。『三国志』裴松之注に引く東晋の習鑿歯が編纂した『襄陽記』では、荊州時代に龐統と並び称されていたと記されている[27]

一方で北魏の宰相であった崔浩は「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と、陳寿の評も過剰評価であり、昔の名将と比較できるものではないと酷評している[28]

北朝でも北斉宇文泰は、有能な部下に対し「孤(私)の孔明である」として「亮」の名を与えている(劉亮[28]

代に至ると唐以前の中国史を代表する名将であるとして、太公望の侍神の一人(武廟十哲)として祀られるようになり、偉大な軍師・名政治家としての評価が固まることとなった[29]

民衆の間でも軍師としての諸葛亮像が語られるようになった[30]。この傾向は時代を追うごとに強まり、代には神仙のような力を持つ諸葛亮像が生まれるに至る[31]

雍正帝孔子廟の侍神として諸葛亮を祀るよう決め、軍神だけでなく、儒者としても国家の尊崇を受ける存在となった[32]

軍事指導者としての諸葛亮 編集

諸葛亮は生まれつき創造力があり、魏に対する北伐の際には連発式の弩を工夫し一つの弩で十本の矢が同時に発射されるようにし、運搬につかう木牛、流馬を開発したとされる。

また、兵法を応用して「八陣の図」を作成し、ことごとく要領を得ていたとされている。

この八陣の図は、司馬昭から諸葛亮の用兵術の回収を命ぜられていた陳勰が学び、晋の近衛軍に承継され、八陣の図の一部である車蒙陣(対騎兵戦術)を馬隆が継承し、異民族の討伐の際に用いられた。

陳寿が指摘した、諸葛亮が奇策を用いなかったことについては「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)などの意見もある一方、魏から西晋にかけての学者である傅玄は著作『傅子』で「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」と述べ、明末の儒学者王夫之は『読通鑑論』で「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」とし、南宋の政治家洪邁は『容斎随筆』で「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」と述べている。

三国志に注釈をつけた裴松之は陳寿の評に注釈として袁準の『袁子』をひき、袁準は著作の中で「諸葛亮が率いた軍隊は国外に出撃しても客人のようにふるまい、行軍中は乱暴をはたらかず、まるで自分の国内にいるようであった。その用兵は停止しているときは山のようにどっしりとし、前進と撤退のときは風のように素早かった。出兵の日には天下が揺れ動いたが、人々の心は何の憂いも生じなかった。行軍は堅固と慎重を持し、行動しやすく進退自在、法令は明晰であり、信賞必罰であったので士卒は命令に応じて危険な状況に赴き、死をもかえりみなかったため戦闘に強かった」(原文を部分的に抜き出して要約)とし、「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面で無理をしなかったのである。これこそ賢者の偉大なところであって、不得手な面をわきまえているということは得手を知っているということである」と評している[注釈 12]

また、同著で袁準と対話をしている人物は「諸葛亮は数万の軍勢を率いていたが彼が構築したものは数十万人によって成された仕事のようであった」と述べている。

『正史三国志 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫)の解説を担当した東洋史学者吉川忠夫は陳寿の諸葛亮に対する批判も、きわめてひかえめに語られており、その敬愛の情にかげりは見えないとし、裴松之が陳寿の同時代人である袁準の『袁子』を陳寿の評に対して引いたのは諸葛亮伝評をいかに正しく読むべきかを教えるとともに、陳寿と共有するみずからの諸葛亮に対する敬愛を確かめる気持ちをこめてのことでもあっただろうと述べている。

個人の評価 編集

  • 李厳:諸葛亮に手紙を出し、九錫を受け王となるよう勧めたことがあった。それは劉禅から帝位を奪うことに繋がる行為である。そのため「魏を滅亡させ、あなた方と一緒に昇進するならば、九どころか十の恩典でも受ける所存です」と李厳の申出を拒絶した。(『諸葛亮集』)
  • 樊建:「自分の悪い点を知らされれば必ず改めて、過ちを強引に押し通すことはせず、賞罰の間違いのなさは、神明を感動させるに足るほどでした」と司馬炎からの質問に答えている。
  • 司馬懿:諸葛亮に手紙を出し「黄権(魏に降伏した蜀漢の将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」と述べた。(『蜀書黄権伝』)
  • 李邈:諸葛亮の死後、劉禅に上表して「(諸葛)亮は強兵を身辺に置き、狼のように狡猾で、虎のように(叛逆の)機会を窺っていました。強大な臣下を辺境におくのは危険であり(『春秋左氏伝』より)、臣はいつも危惧していました。今亮が没したのは、皇室は安泰を得られ、西戎(西方の非漢民族)は安息を得られたのですから、万民が慶祝すべきと存じます」と主張した。劉禅は怒り、李邈を誅殺した[5]。(『華陽国志』)
  • 竹林の七賢」の一人の嵆康:「徐庶は母親のために劉備のもとを離れたが、諸葛亮はこれを止めなかった。これこそ真の友情である」と述べた。(『山濤に宛てた手紙』)
  • 傅玄:諸葛亮は誠に当代の異才であり、国を治めるのに分別があり、軍を御するのに法があり、功を積み興業をなし、その機を得ることに余力を残さずついやした。蜀が弱国で危ういことを知り、慎重堅持して国を鎮めた(『傅子』)。
  • 東晋の武将の桓温:347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。その結果、桓温の野望は潰えた。
  • 常璩:「諸葛亮は英覇之能を持ち、政・理民を脩めて、その武威を外に振るった」(「華陽国志」)
  • 東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。また『漢晋春秋』の中で「諸葛武侯は漢を匡すの望有り、是れ本を宗ぶの心有るなり」と漢の復興が諸葛亮の本望であると述べた。また『襄陽記』には、巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられたと書いている。
  • 袁宏:東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[注釈 13]
  • 孫盛:「諸葛亮の名声、謀略は、外敵を征圧するのに十分であり、故に異同の心無く振舞うことができたのである」(「諸葛亮伝裴注」)
  • 桓玄:「いにしえより乱世の君臣で互いに信じあっていた者は昭公楽毅、玄徳と孔明である」(『晋書劉牢之伝』)
  • 李暠:「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始を尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」(『晋書』涼武昭王伝)
  • 劉義慶:諸葛誕が仕官した時「蜀漢は其の龍(諸葛亮)を得、呉は其の虎(諸葛瑾)を得、魏は其の狗(諸葛誕)を得たり」といわれた。また東晋の王徽之(王羲之の五男)は、北府(徐州刺史)を拝命した郗愔の家に来て「応変将略は、その長ずるところにあらず」と何度も言った。郗愔の次男は怒ったが、長男は「これは陳寿の諸葛亮評だ。何の文句があろうか」と言った(『世説新語』)。
  • の儒者の王通:「諸葛亮が死ななければ、さらに礼楽(礼節と音楽のこと、儒教の根本的規範)は興隆したであろう」と述べた。(『文中子』)
  • の宰相の裴度:「君に仕える節度、国を開く才能、立身の方法、人を治める技術、この四条件を全てそなえ実践したのは孔明その人である」と称賛した。(『蜀丞相諸葛武侯祠堂碑文』)
  • 杜甫:「伊尹呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」)、また漢詩「蜀相」の中で、諸葛亮の生き様は後世の英雄たちに涙を流させたと評価した。
  • 唐の文人孫樵:『刻武侯碑陰』に「武侯(孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と書く。
  • 北宋神宗王安石に対して「唐の太宗魏徴を用い、劉備は諸葛亮を用いることにより様々な政策を実施することができた。この二人はまことに不世出の政治家である」と述べた。(『東都事略王安石伝』)
  • 北宋の司馬光:諸葛亮が丞相の時、恩赦を惜しんで簡単には出さないと指摘された。それに対し「世を治めるには優れた徳で治めるのであり、小さな恩恵で治めるのではない」と答えた。(『資治通鑑』)
  • 蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)。劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては「劉璋を騙し討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋を騙し討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、の学者の王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。
  • 託克託:「岳飛の忠義の言、眞に諸葛孔明の風有るも卒に秦檜の手に死す」(『宋史岳飛伝』)
  • 朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3)
  • 葉方藹順治帝から「諸葛亮は伊尹と比べてどうだろうか」と質問され「伊尹は聖人ですから孔子と匹敵させるべきです。諸葛亮は大賢者ですから顔回と匹敵させるべきです」と答えた。(『清史稿葉方藹伝』)
  • 康熙帝:劉備・劉禅に対する献身について「臣下たる者の中で、諸葛亮だけがこのようなことを成しえた」と述べた。(『大清聖祖仁皇帝実録』)
  • 清の毛宗崗:「読三国志法」において三絶の一人として評価した。三絶とは智絶(智の極み)の諸葛亮、義絶(義の極み)の関羽、奸絶(奸の極み)の曹操を指す[注釈 14]

日本における「孔明」像 編集

 
諸葛亮の画

中世期 編集

  • 太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」には、「新田義貞が見た夢(内容は「義貞が大蛇に変身して敵方が敗走する」というもの)を皆が吉夢と喜ぶ中で、斉藤道献だけが戦死を予感する」という描写があり、そこに「水魚の交わり」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの諸葛亮にまつわる説話を踏まえた記述が見られる[34]。ここでは智将としての「孔明」像が、主従の繋がりを意識して話題の中心に据えられている[注釈 15]
  • 竹中重門は『豊鑑』巻1「高松」の中で、豊臣秀吉竹中半兵衛の死去に際して悲泣したことを「劉禅、孔明を失いしに異ならず」と記している[要出典]

近世期 編集

  • 江戸時代初期から詩文などに『演義』における「孔明」像の影響を受けたものが散見される[35][36][37][38]
    • 林鵞峰以降、漢詩の題材として関羽と共に「至忠の烈臣」としての「孔明」像が讃えられた[36][39][40][41][42]
    • 貝原益軒は兵法書『武訓』の中で、曹操を「足利高氏に匹敵する極悪人」としており、諸葛亮を「楠木正成に匹敵する忠臣」としている[43]。また『自娯集』においても、「楠公墓記」(巻之三)や「諸葛武候像賛」(巻之七)で忠臣「孔明」像を高く評価している[38]
  • 諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて、鵜飼石斎は肯定しているが、伊藤仁斎は否定しており、伊藤東涯は仁斎の論を踏襲しながらも諸葛亮を評価している[35]
  • 平田篤胤は『西籍概論』において、「孔子以後は孔明がいるだけだ」と述べている[要出典]

近代 編集

  • 劉備に忠義を尽くす「孔明」像が教科書に登場する[43]
    • 楠木正成南北朝正閏論を経て「大楠公」と呼ばれるようになった際に、講談などでは『演義』における天才軍師としての「孔明」像と重ねて語られるようになった。木戸孝允も長州藩士に宛てた手紙の中で「楠木正成や諸葛亮のような有能な人材を登用すべきだ」としている[要出典]
  • 1939年から1943年の間に執筆された吉川英治三国志』は、諸葛亮の群を抜く才知と忠誠心を描き出し、今日までの日本における三国志関連作品の「孔明」像を決定づけた[44]横山光輝三国志』やNHK人形劇 三国志』などは、吉川三国志の「孔明」像を基調にしている[45]

現代の評価 編集

  • 中国文学翻訳家の土屋文子は「文化大革命が終了した後の1980年代前半は、中国の史学研究がいわゆる儒教闘争史の頚木から解放され、著しく活性化した時期であった」「諸葛亮個人に関するものに限ってみても、1980年から1985年までの5年間に全国でおよそ150篇にものぼる論文が発表されているが、これは文革以前の17年間における累計の約3倍に相当する数字である」ことから、これを「『諸葛亮研究史における繁栄と収穫の時期』であったといってよいだろう」とし[46]、「80年代に入って発表された論文の中には、これまでは諸葛亮の功績として評価されてきた事項に、新たな疑問と批判を投げかける、いわば諸葛亮否定論といった風潮が生じている」と指摘した上で[46]、こうした論文に対して「こうした批判的風潮は、何もいたずらに諸葛亮をおとしめるために起こったものではなく、論者たちはこのような過激な手法を手がかりとして、諸葛亮に対する従来の一方的な賛美から脱却し、新たなアプローチを試みているのである」との見解を提示している[47]
  • 日本の中国史学者である渡邉義浩は「第五次北伐では木牛・流馬で運搬にあたり、斜谷水の河辺で屯田を行い、懸案であった兵糧の問題は解決しつつあったが、自身の病状が戦いの継続を許さなかった。外交により孫呉の協力を引き出し、困難とされる撤退を無傷で行い、兵糧補給の困難を克服し、敗戦の後には責任の所在を明らかにして士気を維持した諸葛亮は名将と言ってよい」と述べている[48]

創作における扱い 編集

『三国志平話』 編集

宋代には『説三分』とよばれる三国時代を題材にした講談が民衆の間で人気を博した。講談の台本として元代に作成されたのが『三国志平話』である。その中で諸葛亮はを撒いて兵を作り、風を起こして雨を降らせるなど神仙として描かれている[49][50]。これは諸葛亮の出身地である琅邪が、古代より多くの方士(始皇帝時代の徐福孫策を呪った于吉など)を生み出してきた天師道のメッカであることも一助となったという[51]。また諸葛亮は農民出身とされ、どんな病気も治療する名医としても描かれている[31]

『三国志演義』 編集

 
京劇の諸葛孔明。『演義』での孔明像をふまえて、頭に綸巾を戴き、手に羽扇をもち、身に八卦衣をまとっている。

小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである[注釈 16]

『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮について「白い輿に乗り、葛巾をかぶり、羽扇を手に軍を指揮した」と描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、「綸巾を戴き、羽扇を手にし、四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来る」といったほぼ完璧な人物として描写されている[54]。この描写については批判もあり、例えば魯迅などは『中国小説史略』にて「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている[55][56]

諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。

  • 『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。
  • 赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。
    • 非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し、全て言い負かし沈黙させる。
    • 非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる[注釈 17]
    • 戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して「10日で矢10万本を手に入れろ」と言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った[注釈 18]
    • 曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている[注釈 19]
  • 赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍を旧恩により見逃した関羽を軍律に照らし斬ろうとするも、劉備のとりなしで免じる。関羽が曹操を見逃すことを知っていたが、規律の厳しさと公平さを知らしめるべく意図的に行ったとされる。
  • 赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したと展開だが、これらも『三国志』本伝には記載はない。
  • 北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北した時、魏軍の追っ手の司馬懿らを目前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿は諸葛亮を恐れて撤退した。これは魏・西晋の郭沖が諸葛亮を評価した五つの故事に記述が見えるが、裴松之はこれを作り話であるとしている。
  • 『演義』李卓吾本では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって魏延をなだめるため「馬岱が自分の命令を守らなかったための手違い」として処理し馬岱を一兵卒に落とした[注釈 20]
  • 最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築き寿命を延ばすべく祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまい失敗し、死去する。諸葛亮が没する時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮が亡くなった事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったという[注釈 21]

著作など 編集

『三国志』諸葛亮伝では「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。

諸葛亮の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である[注釈 22]。また『隋書』によると論前漢事一巻、蜀丞相諸葛亮撰、諸葛亮兵法五巻がある。漢詩などはまったく残しておらず[注釈 23]、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には、王朗らの降伏勧告への反論『正議』、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』、また同じく旧蜀の臣寿良も『諸葛亮集』を纏めていたがいずれも、現存していない。

『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が既に死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。

また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して『八陣の図』(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。

諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものを諸葛亮(諸葛亮の妻(黄夫人)が一部発明した逸話もある。)が発明であるとされる[要出典]。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の元戎)や木牛、流馬を開発したと記されている。

  • 晋時代に普及した筒袖鎧
  • 連発式の弩を工夫した元戎[注釈 24]
  • 一説に一輪車(猫車)の起源とされる木牛
  • 一説に四輪車と言われる流馬
  • 駐留時栽培させた諸葛菜(
  • 織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦
  • 字を知らない民の教育に使用した紙芝居
  • おもちゃの孔明鎖
  • 孔明灯[注釈 25]

なお、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという現地の風習を廃止させるため、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込んで人頭に見立てたものが「饅頭」であるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。

家系 編集

諸葛亮の子孫たち 編集

中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村浙江省金華市蘭谿市諸葛鎮にあり、住民3000人のうち8割が「諸葛」姓となっている。国外へ移住した華人を含めて家系図を十数年に一度更新しており、2020年時点では中国国内のほか欧米東南アジア日本に合計1万3000人の「子孫」がいる[60]

近年になって発見された家系図[注釈 26]があるとはいえ、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は1996年に、中国国家重点文物保護単位第4陣に指定された[61]。また、国家4A級観光スポットである。

清の張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質(諸葛瞻の子)という孫がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘と甥の諸葛望(諸葛均の子)がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。しかし、歴史学者の張崇琛によると、張澍が記した諸葛一族は後世の創作であろうと指摘している。

諸葛亮を主題とした作品 編集

漢詩
  • 『蜀相』(杜甫
  • 『古跡を詠懐す』(其の五)(杜甫)
  • 『八陣の図』(杜甫)
  • 『憤りを書す』(陸游
  • 『五丈原』(胡曾
  • 『司馬仲達、武侯の営址を観る図に題す』(頼山陽
  • 『武侯の墓』(竹添井井
  • 『自賛肖像』(吉田松陰
  •  成都武侯祠の対聯
京劇
  • 『空城計』
新体詩
小説
  • 陳舜臣『諸葛孔明』中央公論社、1991年。上 ISBN 9784120020032/下 ISBN 9784120020049中公文庫、1993年)
  • 宮城谷昌光 『諸葛亮』(『日本経済新聞』朝刊に連載中)
テレビドラマ
映画
漫画
舞台
ゲーム

関連項目 編集

諸葛亮にまつわる人物
諸葛亮にまつわる言葉

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、即ち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。
  2. ^ 魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてあるのに、こんな異説を立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。
  3. ^ 後世において孫盛は、この言「事業が成就しなければそれはそれでしかたがない。どうして彼らに屈服できようか」をまことに壮烈であって、臆病者の心をも奮い立たせると評し、魏に降伏した劉禅や譙周を批判している。
  4. ^ 法正は建安25年(220年)に死去している。
  5. ^ 頼恭の子。頼恭は高位に就き朝政に深く関わっていたが、陳寿による編纂が行われた時代には、史料が散失していたため立伝されなかった。
  6. ^ 魏志「明帝紀」所引の『魏略』より。蜀志「費詩伝」では、「諸葛亮は孟達に誠実な心がないと思っていたため、救助しなかった」とある。
  7. ^ 「魏延伝」の記述より。『魏略』によると、この時魏延は長安を急襲する作戦を提案している。
  8. ^ 諸将は皆、馬謖ではなく魏延・呉懿を推挙したが、諸葛亮は聞き容れなかった。
  9. ^ この戦いは、王平の張郃撃退と追撃時の張郃戦死を除くと勝敗優劣は『三国志』本伝に書かれていない。『三国志』王平伝では、司馬懿が諸葛亮を攻撃したことには触れているがその勝敗は触れておらず、王平が張郃を撃退したことのみ言及している。『三国志』『華陽国志』『資治通鑑』では蜀軍が撤退した理由は兵糧不足となっており、『三国志』後主伝・諸葛亮伝・張郃伝、また『魏略』『太平御覧』『資治通鑑』では、魏の張郃が蜀軍を追撃し、張郃が射殺されたことのみ言及している。『漢晋春秋』『資治通鑑』では、蜀軍が魏軍の郭淮・費曜・司馬懿を破ったとしている。経緯は異なるが『蜀記』にも蜀軍が魏軍に大勝した話が書かれている。『晋書』では、魏軍が蜀軍を撃退、追撃して大勝したとしており、追撃の将が司馬懿となっている。なお『晋書』はその内容の正確性に批判的な評価も多く、『蜀記』もまたその内容に疑問を呈されている。いずれにしても攻め込んだ蜀軍が所期の目的を果たせぬまま撤退したのは事実である。この戦いの後、魏では蜀軍を撤退へ追い込んだ功により官位の引き上げが行われ、蜀漢では戦いを理由とした官位の引き上げも引き下げも行われていない。
  10. ^ この田畑は今もなお麓に残っており、地元ではこの農地を「諸葛田」と呼んでいるという[7]
  11. ^ 三国志演義』では「8月23日」とされる。
  12. ^ また「諸葛亮が行軍中に作った軍営・井戸・かまど・厠・砦などは立派で規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所・宿場・橋・道路の修築を好んだが、諸葛亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を奨励した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなった」とも評している。
  13. ^ 名臣20選には、荀彧荀攸袁渙崔琰徐邈陳羣夏侯玄王経陳泰(以上)、諸葛亮龐統蔣琬黄権(以上)、周瑜張昭魯粛諸葛瑾陸遜顧雍虞翻(以上)を選出しており、諸葛亮は「堂堂孔明 基宇宏邈 器同生民 獨稟先覺 標牓風流 遠明管樂 初九龍盤 雅志彌確 百六道喪 干戈迭用 苟非命世 孰掃雰雺 宗子思寧 薄言解控 釋褐中林 鬱為時棟」と謳われている。
  14. ^ これらのフレーズは原文にはない[33]
  15. ^ たとえば「水魚の交わり」は、蜀志「諸葛亮伝」において関羽と張飛を宥める劉備の言葉として機能しており、『三国志演義』にも見られるが、『太平記』では関羽と張飛の存在が完全に消滅しており、そうすることで「偉大なる智将」という「孔明」像を描き出している[34]
  16. ^ このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない[52][53]
  17. ^ 『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張しており、田横の最後を例に挙げ孫権を説得している。
  18. ^ これは『三国志』呉主伝注引『魏略』の孫権の逸話を利用したものだが、『三国志平話』では周瑜の功績として描かれ、得た矢の本数は数百万本とある[57]。『三国志演義』では唐代の張巡の逸話をも吸収した上で、諸葛亮の功績にされた[58]
  19. ^ 「諸葛祭風」として『平話』にも描かれているほか、「七星壇諸葛祭風」という雑劇もあった[59]
  20. ^ 『演義』の版本として現在最も通行している毛宗崗本では、この部分は削除されている。
  21. ^ この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、「木像に狼狽した」というのは演義の創作である。
  22. ^ 南宋の安子順は李密の陳情事表、韓愈の祭十二郎文と並んで古文の三大傑作としている。
  23. ^ 諸葛亮が陸中にいた際、よく口ずさんでいた詩『梁父吟』は諸葛亮の作という説もある[要出典]
  24. ^ 『魏氏春秋』によれば、この弩は「十本の矢を同時に発射することができた」という。
  25. ^ 現在の雲南省にて「諸葛亮発明」と伝わる[要出典]
  26. ^ 彼らの先祖は「諸葛亮の孫の諸葛京の家系」とされる[要出典]

出典 編集

  1. ^ a b   『蜀書五 諸葛亮傳』 (中国語), 三國志/卷35#諸葛亮, ウィキソースより閲覧, "諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也。" 
  2. ^   『卷五十二 呉書七 張顧諸葛歩傳』 (中国語), 三國志/卷52#諸葛瑾, ウィキソースより閲覧, "吳書曰:其先葛氏,本琅邪諸縣人,後徙陽都。陽都先有姓葛者,時人謂之諸葛,因以為氏。" 
  3. ^ 『校補襄陽耆旧記』(中華書局、2018年)巻2・人物「蒯欽」の記述より。
  4. ^ 松浦友久『詩歌三国志』 新潮社 新潮選書 1998年
  5. ^ a b c   華陽國志 先賢志 (中国語), 華陽國志/卷十#廣漢士女, ウィキソースより閲覧。 
  6. ^ 呉の張儼『黙記』、習鑿歯『漢晋春秋』より。
  7. ^ NHK取材班編『その時歴史が動いた コミック版 三国志編』収録「死せる孔明・中国を動かす」(小川おさむ作画、2004年9月初版発行。ISBN 4-8342-7313-X
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  9. ^ 狩野直禎 (1976), p. 94.
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  11. ^ 正史三国志5:蜀書(ちくま学芸文庫), p. 104.
  12. ^ 正史三国志5:蜀書(ちくま学芸文庫), p. 117.
  13. ^ 『三国志』蜀書 先主伝
  14. ^ a b 狩野直禎 (1976), p. 91.
  15. ^ 狩野直禎 (1976), p. 92.
  16. ^ a b 三国志Ⅱ(世界古典文学全集24B), p. 373.
  17. ^ 三国志Ⅱ(世界古典文学全集24B), p. 374.
  18. ^   晉書 卷一帝紀第一 (中国語), 晉書/卷001#宣帝, ウィキソースより閲覧, "帝弟孚書問軍事,帝復書曰:「亮志大而不見機,多謀而少決,好兵而無權,雖提卒十萬,巳墮吾畫中,破之必矣。」" 
  19. ^   晉書 卷一帝紀第一 (中国語), 晉書/卷001#宣帝, ウィキソースより閲覧, "與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。亮長史楊儀反旗鳴鼓,若將距帝者。帝以窮寇不之逼,於是楊儀結陣而去。經日,乃行其營壘,觀其遺事,獲其圖書、糧穀甚眾。帝審其必死,曰:「天下奇才也。」" 
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  24. ^ 渡邉義浩 (2022), p. 114.
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  33. ^    (中国語) 『三国志演義』「読三国志法」, ウィキソースより閲覧, "吾以為《三國》有三奇,可稱三絕:諸葛孔明一絕也,關雲長一絕也,曹操亦一絕也。歷稽載籍,賢相林立,而名高萬古者,莫如孔明。[...]歷稽載籍,名將如雲,而絕倫超群者,莫如雲長。[...]歷稽載籍,奸雄接踵,而智足以攬人才而欺天下者,莫如曹操。" 
  34. ^ a b 田中尚子 (2007), pp. 18–41(初出は田中尚子 1999
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  43. ^ a b 渡邉義浩 (2015), p. 162.
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参考文献 編集

著書
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  • 中林史朗訳著『諸葛孔明語録』明徳出版社〈中国古典新書続編〉1986年
  • 渡辺精一訳著『全論諸葛孔明』講談社 2004年。ISBN 4062118971
  • 高畠穣『諸葛孔明の兵法』三笠書房 1990年。ISBN 4837904076
  • 井波律子『三国志演義』岩波書店岩波新書〉、1994年。ISBN 9784004303480 
  • 田中尚子『三国志享受史論考』汲古書院、2007年。ISBN 9784762935497 
    • 田中尚子「『太平記』における〈三国志〉の享受」『和漢比較文学』第23号、和漢比較文学会、1999年8月、13-29頁。 
    • 田中尚子「近世前期における〈三国志〉享受の一齣:『国史館日録を中心として』」『説話文学研究』第38号、説話文学会、2003年6月、176-186頁。 
  • 渡邉義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』中央公論新社中公新書〉、2011年。ISBN 9784121020994 
  • 渡邉義浩『英雄たちの「志」:三国志の魅力』汲古書院、2015年。ISBN 9784762965418 
  • 渡邉義浩『「古典中国」における史學と儒教』汲古書院、2022年。ISBN 9784762967030 
  • 長尾直茂『本邦における三国志演義受容の諸相』勉誠出版、2019年。ISBN 9784585291794 
    • 長尾直茂「江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて」『日本中国学会報』51集、日本中国学会、1999年10月、223-239頁。 
    • 長尾直茂「江戸時代の絵画における関羽像の確立」『漢文學 解釋與研究』2輯、漢文学研究会、1999年11月、101-136頁。 
    • 長尾直茂「伊藤仁斎、東涯父子の諸葛孔明観」『漢文學 解釋與研究』3輯、漢文学研究会、2000年12月、31-60頁。 
    • 長尾直茂「近世における『三国志演義』:その翻訳と本邦への伝播をめぐって」『國文學・解釈と教材の研究』第46巻第7号、学燈社、2001年6月、65-73頁。 
    • 長尾直茂「江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像:『三国志演義』との関連において」『漢文學 解釋與研究』7輯、漢文学研究会、2004年12月、73-103頁。 
    • 長尾直茂「諸葛孔明批判論とその本邦における受容をめぐる一考察」『斯文』第113号、斯文会、2005年3月、1-16頁。 
    • 長尾直茂「日本漢詩文に見る楠正成像:諸葛孔明との関連において」『アジア遊学』第173号、勉誠出版、2014年3月、84-98頁。 
論文

伝記 編集

辞書類 編集

外部リンク 編集