劉 驥(りゅう き)は中華民国の軍人・政治家。国民軍国民革命軍国民政府)に属する。谷生菊村。祖貫は湖北省鍾祥県

劉驥
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)
死去: 1967年
中華人民共和国江蘇省南京市
出身地: 湖北省武昌府武昌県
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 劉驥
簡体字 刘骥
拼音 Liú Jì
ラテン字 Liu Chih
和名表記: りゅう き
発音転記: リュウ ヂ-
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事跡 編集

馮玉祥側近へ 編集

1905年光緒31年)に湖北高等小学堂を卒業し、さらに東三省陸軍講武堂で学んだ。卒業後に新軍に加入し、第20鎮を率いる張紹曽の配下となる。このとき、馮玉祥率いる部隊に編入され、馮が主宰する武学研究会に加入した。

辛亥革命勃発後、灤州起義に参加している。1912年民国元年)に武漢に戻り、湖北都督府参謀に任ぜられた。翌年、北京陸軍大学第4期に入学している。卒業後は、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅で少校参謀となった。1915年(民国4年)、北京政府の臨時参政院参議となる。10月、署理察西鎮守使に異動した。

1919年(民国8年)、やはり馮玉祥率いる陸軍第11師で参謀長となった。翌年、陝西河南の督軍署参謀長として、馮を支える。1921年(民国10年)、西北辺防督弁署参謀長兼察西鎮守使となった。1924年(民国13年)の馮玉祥による北京政変(首都革命)にも参加し、国民軍の成立とともに、国民軍総司令部参謀長兼京兆尹に任ぜられる。1926年(民国15年)、馮に随従してソビエト連邦に向かう。6月、馮の命により広州へ向かい、馮と国民軍の中国国民党加入手続きについて党中央と交渉した。

国民政府での活動 編集

国民政府に転じた後の1927年(民国16年)1月、劉驥は湖北省政務委員会委員・中央政治委員会武漢分会委員となる。3月、武漢国民政府軍事委員会陸軍処処長に任ぜられた。同月、馮玉祥から駐武漢国民政府全権正代表(副代表は李鳴鐘)に任ぜられた。6月、第2集団軍参謀長兼第30軍軍長として第2次北伐に参戦した。

1928年(民国17年)、国民政府軍事委員会委員に任ぜられる。翌年5月、湖北省政府委員兼建設庁庁長に異動する。1930年(民国19年)、馮玉祥の反蔣介石戦争に参加し、反蔣聯軍総参謀長に任ぜられた。馮敗北後の翌年9月、軍事参議院参議に移る。1933年(民国22年)、湖北省第8区行政督察専員に転じたが、9ヶ月で辞任し、いったん帰郷する。

日中戦争(抗日戦争)勃発に際して復帰し、第3戦区司令部参謀処長、第6戦区参謀長を歴任した。翌年末に四川省に戻る。1941年(民国30年)、眼病のため引退した。中華人民共和国建国後も大陸に留まり、中国国民党革命委員会(民革)に加入した。以後、武漢市人民政府参事室参事、民革武漢市委員会員、南京市人民政府参事室参事を歴任した。

1967年[1]、病没。享年81。

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  1. ^ 武漢方志網による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は1964年とする。

参考文献 編集

  • 「劉驥」武漢方志網(武漢市地方志編纂委員会弁公室ホームページ)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
薛篤弼
京兆尹
1925年10月 - 1926年5月?
次代
李垣