卑衍(ひ えん、生没年不明)は、中国三国時代の武将。[1]

三国志の記述

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公孫淵の将軍として仕えた[2]景初2年(238年)、司馬懿の軍が遼東に至ると公孫淵によって派遣され、楊祚と共に歩騎数万で遼隧に駐屯し、約20里にわたる塹壕を築いた。司馬懿が到着すると胡遵に敗北し、囲いも破られた。司馬懿軍が東南から東北に急転換し襄平に向かおうとすると、城の守りが無いことを恐れた卑衍らは夜に逃走した。魏の諸軍が首山(襄平西南)に至ると迎撃に出て、死力を尽くして戦ったが敗北した。その後楊祚らは降伏し、公孫淵らは逃走したが、卑衍の動向は不明[3]

三国志演義の記述

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公孫淵配下の大将軍で元帥に任じられ、遼兵十五万とともに中原を攻めた。曹叡の命で公孫淵討伐に進軍してきた司馬懿と戦うが、夏侯覇に一刀で討ち取られた[4]

脚注

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  1. ^ 『元和姓纂』の卑姓の項に「雁門郡 ~ 魏志公孫度有卑術」とあり「公孫淵の卑衍」の誤記とすれば雁門郡の出身者。
  2. ^ 『資治通鑑』では大将軍
  3. ^ 三国志 魏書·二公孫陶四張傳』「淵遣將軍卑衍、楊祚等步騎數万屯遼隧,圍塹二十餘里。宣王軍至,令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等擊破之。宣王令軍穿圍,引兵東南向,而急東北,即趨襄平。衍等恐襄平無守,夜走。諸軍進至首山,淵復遣衍等迎軍殊死戰」s:zh:三國志/卷08
  4. ^ 三国志演義』「第百零六回 公孫淵兵敗死襄平 司馬懿詐病賺曹爽」s:zh:三國演義/第106回