司馬尚 (戦国)
司馬蒯聵の孫(趙の武将)、司馬浅(司馬昭豫)の子。趙の武将。李牧とともに名将と謳われた。
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紀元前229年 大地震の混乱に付け込み、秦が王翦を大将、楊端和と羌瘣を副将として大軍を起こして、趙へと攻め込んできた。これに対し趙王・幽繆王は李牧と司馬尚を将として、これを迎え撃った。
戦いは、趙の王都邯鄲にて行われた。攻めあぐねた王翦は奸臣郭開を買収、郭開は趙王を惑わし、李牧に軍権剥奪を行おうとした。李牧はこれに対し不服とし、従わなかった。そして、李牧は処刑され、司馬尚は庶民へと落とされた。
その後、約三ヶ月で趙は滅びた。
“赵世家”. 2021年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月17日閲覧。。
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