吉田栄三
初代吉田栄三(よしだ えいざ 明治5年4月29日(1872年6月4日) - 昭和20年(1945年)12月9日)は文楽人形遣い。本名:柳本 栄次郎。
人物
編集大阪府東区濃堂町に玩具の人形作りの子に生まれた。母方の叔母が女義太夫で、その叔母が人形遣いの吉田栄寿と結婚したことから1883年6月大阪・日本橋沢の席の初開場に2代目吉田光栄の名で初舞台。特定の師匠をもたず、稲荷座などにも出入りしながら、伝統的技術や型を学んだ。1892年彦六座で栄三と改名。1898年に御霊文楽座に移り、初世玉造と紋十郎から厳しく鍛えられた。1907年紋十郎の代役で、『和田合戦』の「市松初陣の段」が大好評で、やがて文楽座の花形となって活躍、1927年桐竹紋十郎没後、長い間空席だった人形遣いの座頭となる。娘や二枚目を得意としたが座頭となったのを機に、女形を3代目吉田文五郎に譲って立役に転じた。
『天の網島』の治兵衛、『沼津』の重兵衛、『良弁杉由来』の良弁などは、渋く内面的な演技として、近世の名人といわれた。栄三の演技は、常に華麗な女形の文五郎と対比され、1943年に文五郎とともに朝日文化賞を受けた[1]。
1945年3月の米軍による空襲により、文楽座は炎上し、栄三の自宅も焼失した。
1945年12月9日、奈良の疎開先で栄養失調により死去、享年74[1]。大阪市天王寺区下寺町の超心寺に墓がある[2]。
「吉田栄三自伝」がある。
脚注
編集- ^ a b “「文楽人形遣い名人」 吉田栄三 (児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ)”. blog.izumishobo.co.jp. 2020年2月7日閲覧。
- ^ “超心寺山門”. 大阪文化財ナビ. 2024年2月18日閲覧。