吉良 義孚(きら よしざね)は、江戸時代中期の旗本吉良家の支流である東条家を継ぎ、赤穂事件で絶えた吉良の家名を復興した。

 
吉良義孚
時代 江戸時代中期
生誕 正徳元年(1711年[1]
死没 明和3年4月19日1766年5月27日
別名 三次郎、左門、三郎左衛門(通称
戒名 大洲
墓所 万昌院
幕府 江戸幕府旗本
氏族 清和源氏足利氏吉良氏庶流東条家→吉良家
父母 父:柘植影正、母:織田信相の娘
養父:東条義武
稲富直暀の娘
義勝、女(比留正利室)
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生涯 編集

宝永8年/正徳元年(1711年)、旗本柘植三右衛門影正(1000石)の次男として生まれた。養父となる東条義武は影正の実弟である。影正・義武兄弟の母の実家荒川家は吉良氏の支族という縁にあたる。

義孚は、享保7年(1722年)12月14日に没した東条義武の末期養子となる。享保8年(1723年)3月5日に東条家500石の家督相続が認められ、6月11日に将軍徳川吉宗に初御目見する。

東条家の宗家であった吉良家は、赤穂事件によって絶えていた(事件後、武蔵吉良氏の流れを汲む蒔田家が吉良の家名を称し、高家を務めている)。享保17年(1732年)2月25日、東条義孚は吉良姓への復姓を願い出て許された。その後、西の丸書院番となったが、宝暦10年12月28日(1761年)には職を辞した。

明和3年(1766年)4月19日に死去した。享年56。吉良家の菩提寺である牛込の万昌院に葬られた。法名は大洲。

家督は長男吉良義勝が継いだ。

系譜 編集

義勝の後、吉良家は、義勝の子の義渡(よしかず)、義渡の弟の義質(よしかた)の順に相続している。

参考文献 編集

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』記載の享年からの逆算による。
先代
東条義武
旗本東条家第3代当主
1723年 - 1732年
次代
吉良へ改姓
先代
東条義武
東条義叔流吉良家初代当主
1732年 - 1766年
次代
吉良義勝