呂 乂(りょ がい)は、中国三国時代の政治家。季陽荊州南陽郡の出身。父は呂常。子は呂辰・呂雅。 

呂乂
蜀漢
尚書令
出生 生年不詳
荊州南陽郡
死去 延熙14年(251年
拼音 Lǚ Yì
季陽
主君 劉備劉禅
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略歴

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劉備は入蜀後、塩と鉄の専売で利益を得るため塩府校尉を設置した。塩府校尉となった王連は、呂乂を杜祺劉幹とともに招聘し典曹都尉に任命した。

その後、呂乂は新都綿竹県令を経て、巴西漢中広漢蜀郡太守を歴任した。後方にあって物資や人員を前線に送り、諸葛亮北伐を支えた。また、任地の行政は善政と呼べるものであったため、住民から慕われた。

後に中央に召されて尚書となり、延熙9年(246年)に没した董允に代わって尚書令に任命された。職務を滞りなく行い、門の前で人が待つようなことはなかった。贅沢はせず、清廉・謙虚で言葉は少なく、仕事は簡明で煩雑さがなかったので、清能と称された。しかし、法に厳格で法律至上の俗吏を好んで任用したため、以前より評判を落とした。

延熙14年(251年)に死去した。

人物

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幼少の頃から読書や音楽を好んだ。

父の呂常は劉焉益州へ送り届けた際、街道が閉鎖され呂乂の元へ帰れなくなったため、呂乂は幼くして父と生き別れになった。

地方にあってその名を称えられ、中央にあってはその名声を落としたのは、前漢の丞相薛宣黄覇の同類であろうと陳寿は評している。

三国志演義

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小説『三国志演義』では登場しないが、劉璋の配下に呂義という人物がいる。

初めは劉璋の家臣で、劉備に降伏して定遠将軍・漢中太守に任命された。その後、諸葛亮の北伐に従軍して李恢の副将を務めた。