土岐 満蔵(とき みつただ)は、江戸時代武将[1]紀州土岐氏頼忠流のひとりである。

 
土岐満蔵
時代 江戸時代
生誕 不明
死没 慶長20年5月6日1615年6月2日[1]
別名 治兵衛
主君 豊臣秀頼
氏族 土岐氏
父母 土岐頼忠 (紀州)
兄弟 一圭満蔵
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生涯

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頼忠次男。豊臣秀頼小姓慶長20年(1615年)の大坂の陣による大坂落城の際に、城中にて豊臣秀頼と共に切腹した四人のうちの一人と伝わる。秀頼に付き従った人々の名は、徳川家康に伝えられ、その際に、家康に仕えていた従兄弟の頼勝(左馬助)と持益(市正)は、家康に「土岐という者がいるが親類か。」と尋ねられ、「はい、親類です。」と答えた。しかし、土岐治兵衛ではなく、土岐長次郎と名前を間違えて記録されてしまった。同じく大坂城内に居た番場殿孫の土肥長次郎と混同されたと思われる。ちなみに土肥長次郎は大坂落城の際に脱出し、その5・6年後に死去している[1][2]。戦後処理の煩雑さのなかで、名前の漏れや混同があったか。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b c 宗秀本土岐家系譜』・『宗見本土岐家系譜
  2. ^ 豊内記』の秀頼公御供のなかには、土岐氏は見当たらず、土肥勝五郎という名が見える。

出典

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  1. ^ 紀州頼忠流七代光房(宗秀)による文化8(1811)年の奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。
  2. ^ 紀州頼忠流三代義虎(宗見)の書写本を文化元(1804)年に同じく七代光房(宗秀)が書写したと奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。系図は慶応3(1867)年まで記載があり、奥付は無いが、装丁からも明治期の書写と推測される。