城北バス住宅(じょうほくバスじゅうたく)は、大阪市に存在していた公営住宅

概要 編集

戦後の大阪で、使わなくなった木炭バスを転用していた。空襲で焼け出された人々が住んでいた[1]

13台のバスを放射状に並べ、そしてその中央の空き地に共同の炊事場や洗濯場を設けていた。この放射状に並べられた13台のバスが2つあり、全部で26台のバスが使用されていた。内部は2坪半と狭いため、隣に増築する人もいた[1]

1946年11月7日、車体が運び込まれ、内部にはガラス窓を残してベニヤ板を張っていた。前と後ろに3段の棚がある4畳半ほどの部屋があった[2]

平均で3、4人が住み、中には9人が住むという世帯もあった[2]

夏は蒸し暑く、冬は冷え込みが厳しかった[2]

家賃は当時の55円で、現在の1700円程度と安く、隣近所とのつながりも深かったため多くの人が住み続けた[2]

1951年廃止[2]

脚注 編集

  1. ^ a b INC, SANKEI DIGITAL (2017年10月24日). “【大阪特派員】山上直子 戦後の暮らし 貧しくても、たくましく(1/3ページ)”. 産経ニュース. 2023年1月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e あんじゅネット | show”. www.osaka-angenet.jp. 2023年1月6日閲覧。