塩田泰介
日本の造船技師
経歴
編集岡山県赤坂郡今井村(現・赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する[注釈 1]。
泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。
1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。
帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。1897年からは造船事業視察のためイギリスに出向。
日本初の大型航洋商船である常陸丸の建造を建造主任として率い、その後も阿波丸、加賀丸、大冶丸などの建造主任を務める。1907年に三菱神戸造船所所長、1911年に三菱長崎造船所所長、1914年に三菱下関造船所所長を歴任。
1915年に東京帝国大学から工学博士号を授与される。同年に三菱造船本社常務取締役に就任。その後も日本鉄鋼協会会長、帝国海事協会理事などの公職につく。