増野 徳民(ましの とくみん、天保12年(1841年) - 明治10年(1877年)5月20日[1])は、幕末から明治時代にかけて活躍した尊攘運動家、医師。名は乾、字は無咎。
医者・増野寛道の子として生まれる。吉田松陰の門人で、松下村塾の創立に尽力。松陰入獄後、岡田以伯に医術をまなびながら尊攘運動をおこなう。1862年(文久2年) 、久坂玄瑞による長井雅楽暗殺計画に加わるも失敗。その後は、尊皇攘夷、倒幕運動に積極的に参加せず、故郷で医業、軍医に専念。1877年(明治10年)に死去。享年37歳。
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