墾田
日本の律令時代に開かれた田地
概要編集
日本の律令制では、墾田に対して、その開墾者の耕作権を一代に限り認める規定があった[1]。開墾者は班給された口分田以外の耕作地を持つことができ、収入が増えた。墾田は口分田などと同様の輸租田の区分だった。
開墾者は、開墾地計画を国衙へ申請し、実際の耕作が確認されると墾田と認められ[2]、その収穫物からは決められた田租を国衙へ納めた。
歴史編集
8世紀初期以降、班給すべき口分田は人口増大に対して不足し始め、更なる耕作地拡大(墾田開発)が求められた。
律令政府は、実効的な耕作地拡大政策を取り、開墾への動機付けを強めたことにより墾田開発が活発化した。
- 722年(養老6)、百万町歩開墾計画を発令した。しかし短期間で取り下げた。
- 723年(養老7)の三世一身法で、灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合には、その墾田の耕作権の私有を許し三代まで世襲することを認めた。
- 743年(天平15)の墾田永年私財法で、認可された墾田に対しては永年の耕作権の私有が許された(収公されない)[3]。認可は朝廷が行い、太政官符及び民部省符からなる公験を発行した。
- 749年、律令政府は寺院墾田許可令を発行した。
その後、天災などが多発した際に、荒廃した耕作地の再開墾を進める必要などから、裁量権を得た国司は墾田を含む特定地に対して、さらに田租の一部減免を任期中に限って許した(免田)。これは効果を上げ、全国へ広まった。