大久保忠宣
九代大久保忠宣(おおくぼ ただのぶ)[1]は、大久保玄蕃知行所の9代目にして最後の領主、上級旗本。6000石を知行し幕府大監察[2]を勤める。通称は四郎左衛門、紀伊守[3]。
時代 | 江戸時代 |
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死没 | 慶応4年(1868年) |
別名 | 四郎左衛門 |
官位 | 紀伊守 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠学 |
生涯
編集彰義隊
編集忠宣は慶応4年(1868年)2月20日、駿府町奉行を旧幕府より罷免された後、彰義隊に加わる。江戸の警備を担っていたものの賊軍とされ、上野の寛永寺に立てこもり官軍と戦う。上野戦争の終盤、根本中堂前の最後の決戦時に、忠宣は残り100名の彰義隊を引き連れ、東照宮の旗を持ち官軍に立ちはだかるも、忠宣は額に砲弾を受け倒れる[2]。これを見て残った彰義隊は3人(天野八郎、新井鐐太郎、紀伊守家来の常助[5])だったという。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典 第1巻』(東洋書林、1997年)
- 森まゆみ『彰義隊遺聞』(新潮社、2004年)
- 木下宗一『上野戦争から五稜郭まで 彰義隊』(早川書房、1965年)
- 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)