大沢 基寿(おおさわ もとすみ[要出典]/もとひさ[1]/もととし[1]、旧字体:大澤 基壽)は、江戸時代後期の高家旗本明治時代ジャーナリスト編集者。別名は基輔通称は七助、采女。号は緑陰(緑蔭)官位従四位下侍従右京大夫

 
大沢 基寿
大沢基寿
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化4年(1847年)?
死没 明治44年(1911年[要出典]
別名 基壽、基輔、通称:七助、采女
官位 従四位下侍従右京大夫
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家茂慶喜
氏族 大沢氏持明院家庶流
父母 父:大沢基暢
間部詮勝娘・福聚
基明
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経歴 編集

大沢基暢の子として誕生した。室は鯖江藩主・間部詮勝の娘・福聚。

万延元年(1860年)閏3月1日、14代将軍・徳川家茂御目見する。同年閏3月25日、部屋住ながら高家見習。明治期の本人の回想によれば、当時14歳であったという。同年4月26日、従五位下侍従采女正に叙任する。後に従四位下に昇進、右京大夫に改める。同年8月27日、高家職。

文久2年12月25日(1863年)、父の死去により家督相続する。慶応2年(1866年)11月27日、高家肝煎。慶応3年(1867年)10月14日、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還上奏文を朝廷に提出する。

万石事件 編集

慶応4年1月22日(1867年)、新政府に服属し、同年2月7日(1867年)には東征軍に資金を献上している。同年8月、新政府に対して石高直しを申請し、実高が1万6石となったという虚偽の報告をした。これによって基寿は同年9月18日、諸侯(大名)に列して堀江藩が立藩する。明治元年(1867年)12月17日、遠江国内の領地の返上と美濃国内に替地の支給を上申する。明治2年6月17日(1869年7月25日)、華族制度が創設されると華族に列し、同月25日(8月2日)、版籍奉還を行い知藩事に任じられる。1871年明治4年)3月20日、家禄の半分を開拓費にあてることを上申し、同年5月29日に許可されている。同年7月、廃藩置県により免職となる。 同年11月に至り、石高直しに関する虚偽の報告が露見すると、基寿は士族に落とされた上で禁錮1年の刑を受けた。

明治時代 編集

 
明治時代の大沢基寿(基輔)の写真

基寿は明治時代には出版業に携わる[2]一方、明治16年(1883年)頃には東京市下谷区区会議員も務めていた[3]

その後、『東京日々新聞』や『やまと新聞[4]』の発行にも関わり、後には自ら社長として『絵入日報』を発行した[5]

また、明治28年(1895年)には条野採菊らと共に、廃業していた三遊亭圓朝を招いて円朝会を催した[6]ことも知られる。

明治32年(1899年)、史談会のインタビューに応じており、この頃までは生存を確認できる。

脚注 編集

  1. ^ a b コトバンク
  2. ^ 明治9年(1876年)に出版された『信礼幼学』という書物には「出版人」として「績文社 大澤基壽」の名が見える。
  3. ^ 東京市下谷区、261頁。
  4. ^ 三三文房、364頁によると基寿(基輔)は『やまと新聞』の主筆だった。鏑木清方条野採菊の子息)『こしかたの記』では「主筆の大沢基輔、緑蔭と号して徳川家世盛りには、吉良上野と並んで高家衆の名門、右京太夫大沢家の殿様だったという、美い男で人品のある通人であった」と評されている。
  5. ^ 交詢社文庫、189頁。『絵入日報』には短期間であるが岡本綺堂が記者として在籍していた。
  6. ^ 山本。

参考文献 編集

当主
先代
大沢基暢
高家大沢家
11代
1862年 - ?
次代
大沢基明